僕はお姫様を助けに行く途中の王子様なんだ。
お屋敷の窓のそばをモップに乗って通りすがるたびにそう言い聞かせてきた。
昔僕が住んでいた屋敷からちょっと離れたところに建っていたそのからくり屋敷。
住んでいた屋敷の部分模型のようなたたずまいで、中にある仕掛けのいくつかはあのころすでに知っていた。
なにせこのモップもそこから僕が、家族の誰も知らなさそうなのをいいことに勝手に持ち出し、小屋に持ってきたものだから。
だから、あの隠し部屋を配達物置き場として提示されたときは迷いもなかった。
とはいえ外観をしげしげ見る機会はあまりなく。
一度近くで見てみたいと思いながら、誰かに飛んでいるところを見つかりやしないかと不安で、実行に移してこなかった。
でも、たまたまちょっとだけ出来心で、昔の住まいが懐かしくなって、モップに仁王立ちしたまま高度を下げたあの日。
あの夜あの窓辺にほんの一瞬見たあの子。
月光を浴びてほの白く発光するような白さは、日の光を浴びることなどない生活を送っている証拠だった。
兄弟にいびられたあのころの屋敷にはなかった面影。
今の僕の生活にも全くリンクしないあの子の姿は印象的で。
その日から勝手にあの子は僕のお姫様になった。
何が入っているかも知らない配達荷物をモップとともに往復し、ヘロヘロになって帰宅する日々。
昔から兄弟達に目を付けられやすかったけど、そいつらがいなくなって楽になった分の体力は労働で削られていた。
この生活から抜け出したい。
でも、抜け出す手立てはない。
ふさがった目の前。
時々、もっとずっと、雲に届きそうなところまで高度を上げて、そこから飛び降りたい衝動にかられた。
それでも飛び続けることができたのは、間違いなくあの日あの屋敷の窓辺で浮かんだ、笑ってしまいたいくらいたわいない妄想があったからだった。
いつの日か必ず、僕が。
なーんて…。
過行く日々の間になんの伝手なのか、大学の教授とやらに荷物を運ぶ機会があった。
どうも論文の執筆で、魔女バーギリアを文学的に解釈するものらしい。
行き詰っているとのこと。
このモップや箒のことは生家にだけ伝わっていた言い伝えで覚えていたが、もしかしたら何かしら書けるような情報があるかもしれない。
そのほうが、配達より金になるかもしれない。
教授に話を持ち掛けたのはその時だった。
案の定、良好な仕上がりになった。
合計5本。
我ながらあの過密勤労スケジュールの合間を縫ってよくやったもんだ。
その執筆の間、関連する情報や、他の論文も読む必要が出た。
海賊ゼタ・ゼルダが『海賊』ではなく義賊で、政府に歯向かったために海賊扱いにされたという説。
魔王の血統が人間と交わった場合、それが健在化した時の身体・能力の特徴。
『小さな巨人』の逸話と魔法の関連性などなど。
読む限りは裏付けも確かな気がしたが、どれも聞いたことがないものばかり。
教授曰く、マイナーなのに加え、政府が率先してもみ消しているものもあるとのこと。
確かにゼタ・ゼルダ義賊説なんかだったらさもありなんだ。
僕が代筆するのが歴史関連じゃなくて文学関連の論文で、そういう心配がなくてよかったと安堵したのはよく覚えている。
ただ、書けば書くほど自分が持っている道具が本当にそういう魔道具であることが疑いようもなくなっていった。
僕には魔力がほとんどない。
なぜかわからないけれど、生まれた時からだ。
僕に限らず親兄弟もそういう才能は皆無だったから、血筋という奴だろう。
それなのにこのモップには難なく乗れた。
バーギリアの調査をしていくうち、この道具がこの物語の中に出てくる意思のあるモップと同じものなら、乗り手の魔力なんて関係なく、本人──人じゃないけど──の意思で勝手に飛ぶだろうと納得するようになった。
そして他にも気になるところがあった。
自分の家系の人間は顔が割と若作りで、体が弱いわけでもないのに、早死にするケースが多い。
よそと比較したわけでもなかったからいままで勝手にそういうもんだと思っていたけれど、調べていくうちに今住んでいる地方の一部の血統が関係する特徴だとわかってきた。
今まで全然そんなことに興味はなかった。
知識の使い道は、兄弟の勉強を代行して金をもらうのと、仕事の口を見つけるのと、それをできるだけ割のいいものにすることの3つだったから。
ソマリはそれをずっと残念がっていた。
その理由がちょっとだけわかったような気がし、寂しい気にもなった。
多分もっとずっと世のため人のために役立てることだって、環境が整ってさえいればできるのだろう。
でもそれは無理だ。
僕には金がないから。
ソマリと自分をかろうじて養うのが精いっぱいで、最近は召使い的な仕事も多少したりして前よりは少しは稼ぎは良くなったけれど、そんなに大勢の人のことを考えることなんてできない。
できたとしてもそれを周りに伝える術もない。
八方ふさがりの日々の中のわずかな光はあの子の存在だった。
あの子と自分のわずかなつながりを見出したのはその論文の調査中だった。
モップ以外に箒があるらしい。
どこかに隠してあるらしい。
モップと一緒にあるのではないか。
その情報が正しいのだとしたら、箒がある。
それも、もしかしたらあの屋敷の中に。
どうやったら中に入れるのだろう。
箒を見つけ出すんだとあの時は息巻いていたけれど、今思えば完全に口実だった。
僕はお姫様に会ってみたかったんだ。
配達で培ったいろんな伝手で、服を買い、化粧の道具を買う。
ちょっとした出費は家の家具を売り払って作った。
メイドの恰好で初めて見た『お姫様』は、僕の思っていたのとちょっと違っていた。
もっとおしとやかで、今の自分にめそめそと涙するタイプを勝手に妄想していたけれど、そんなことはなく、家の中でやれることはやらかし放題のようだった。
つまり、子供だった。
だから余計に『僕のお姫様』に見え、嬉しくなった。
しかもどうやら箒がなくなったとか言っている。
僕が知らなかったこの屋敷の隠し部屋が発見され、そこに箒があったが今はなくなっているという。
内心ほくそ笑んだ。
箒は一人でに消えたとすると、僕んちに帰ってきているかもしれない。
予測は大当たりだったが、まさかのその後の配達妨害には辟易した。
もしかしたら『お姫様』が何か知っているかもしれない。
いや、そうに違いない、そういうことにしよう。
もう止まれなかった。
『家庭教師ドル』として『僕のお姫様』と毎日会える日々は夢のようだった。
大人ぶって頑張る『お姫様』はときどき僕にふくれっ面を向けた。
子供だなぁと思っていた。
自分の子供さ加減を自覚しだして、落ち込んで、でも頑張ろうとしていて。
時々持ち前の機転を利かせて大人のふりをしているけれど、本当はそうでもない、そんなところがかわいくて。
飼い猫を愛でるような日々。
デイジーは思っていたよりずっと、寂しがりやに見えた。
覚えるのが早くて、自分の状況もしっかり理解していたから、余計に子供のままでいることを自分で選んでいたのかもしれない。
そしてだからこそ、まじめに勉強しだしてから急速に大人になっていったように思う。
僕のお役御免の時が来るのかもしれないとほんのり思い始めるにつけ、むかむかするのを抑えた。
僕は『僕のお姫様』を誰にもとられたくなかった。
それと同時に、なんだかデイジーの周りの人間の挙動がおかしい気がし始めていた。
メイド長という一番偉い立場の人が率先して、あくまでも娘でしかないデイジーにあんなに世話を焼いている。
甲斐甲斐しいを通り越している気がした。
なんとなく、一度離れたほうがいいんじゃないかと思った。
というよりあんまりべったりなので時折見ていていら立った。
だから休暇にかこつけて旅行を提案したのだ。
僕は男だから、当然何人かついてくるだろうとは思っていたけれど、こんな大きなお屋敷だし、メイド長が自ら抜けて旅行についてくるわけはないから。
でも、僕の論文の裏取引の話がばれそうになって、あのクソボディーガードが出現し、そいつもメイド長も一緒に旅行ということになってしまったのは本当にがっかりした。
デイジーの身の安全というはそうだけれど、本当に、あのボディーガード。
絶対怪しいぞコイツ、と思っていたけれど、それ以上に毎日毎日デイジーに近すぎる。
物理的に距離が近い。
ムカつく。
この辺りから、僕は自分でももう、デイジーが妄想の中の架空の『僕のお姫様』じゃなくなって、生身の人間になっていたのを自覚していた。
教え子でしょ?
ていうか、僕、落ち着けよ。
そんなこと考えている時点で、もう僕はおかしかったと思うのだ。
その合間にソマリの容態が悪化した。
心配だったけど、それ以上に僕は最低だと思った。
デイジーがこうなったらどうしようと思ったときのほうがずっとショックだったからだった。
あの後案の定熱なんて出すし。
その姿を直前に想像した自分を責めた。
薬を持ってきたときはもう後先なんて考えてなくて。
結果これだから笑えない。
刑が確定し、この数日後、ソマリのところへの面会が許された。
なんでもデイジーが相当の情報などを持ってきて捜査協力したことで、メイド長が薬物取引の真犯人として御用になったため、その見返りの一つに許されたのだそうだ。
逃げる気もない自分がソマリの死に立ち会えそうなのは、『僕のお姫様』のおかげなわけで。
結局のところお姫様に助けられる王子様という、なんとも情けないサマをさらすことになった。
それはそれでいい。
でも当のデイジーが今どうしているのか全く伝わってこない。
あの元クソボディーガードのヤマダが直々に僕の罪状とソマリとの面会の件を伝えに来たが、ヤマダはデイジーに関しては黙秘権を行使している。
話をしている限り、僕がデイジーのことをどう思っているか知っていて、それを利用してボロを出させようとわざとデイジーに近づいていた節があるあいつのことだ。
今回のだって、論文の取引先を割らせようとして揺さぶりをかける前段にしているのだろう。
でも教授の名前は死んでも出さない。
出したら減刑になるかもしれないけれど、彼はあんな形で僕の人生をちょっとだけ開く道を示してくれた恩人ともいえる。
減刑って言ったって3年から半年そこそこだろうからたいして変わらないし。
鉄格子の向こうは遠い。
お姫様を脱皮しているのだろうデイジーのことはもう考えまい。
花のような甘い痛みは僕を際悩ませるけれど、僕は今日、この狭い部屋で一人、パン一切れを夢想することにしよう。
今までと同じように。