タテヨコの関係

私には最近好きな人ができた。
その人は職場の同僚で、こう言うのもなんだが、白いデブだ。
どういうわけなのか人当りは大変良い人物で、同僚の男性陣の中ではどちらかと言えば中心に立っている人である。女性陣からも受けがよく、恋愛経験もあることはあるらしい。なんだかそういう空気を持っている人なのだ。仕事が飛びぬけてできるわけじゃない。それでもこの人を見ていると、『男は顔じゃない』という文句は正しいと思える。
私がこのお屋敷の召使として通いで勤め始めてひと月たったころのあの人への印象は、大体こんなところだ。
それがちょっと違ってきたのは案外最近で、勤め始めて丁度二年たったころのこと。
私は同僚の女性陣のなかでは一番背が高い。だいたい175センチぐらいある。そうすると、なんだかいろいろな女性同僚に頼られる。女の子という生き物は背が高い人に弱いらしい。
だが、それは同時に男性陣から若干の反感を買うということでもある。
私があの人に対して印象を変えた日、私がそのとき付き合っていた彼氏に振られてからちょうどふた月が経過していた。
ある程度消化したショック。それでもなんだかふわふわと体が浮かぶような、体重はそのままなのに、もっと体の奥のほうの何かが切り離されて軽くなってしまっているような感覚が続いていた。私一体何なんだろ、という疑問が浮かんでは消え浮かんでは消えしていた頃のことだった。
「…い、お~い」
「え? あ、すみません、何でしたっけ?」
「いや、なんでもない」
声をかけてきた白デブは、何でもないと答えた。だから、何でもないのか、じゃあ大丈夫だな、と思った私は、そのまま立ち去ろうとした。
「ちょっと休んだら?」
立ち去ろうとした私の後ろから聞こえたのは、そんな一言だった。透き通っていて、どこか間の抜けた、抑揚のない彼の一言が、私には少しグサッときた。でもそんな顔を見せるのもいけないな、という仕事の都合。
私はいつものように取り繕った。
「大丈夫ですよ。見た目通り、体力はありますから」
さらっと言いながら、自分で少し傷ついた。彼が私を振ったあの言葉がフラッシュバックした。
─────『お前といると、落ち着かなかったんだよね。なんか、俺ちっちゃくなった気がして』
「見た目通りっていうと?」
彼の疑問が新鮮だった。誰しもがこの理由付けで納得するから、いいわけには丁度良い、そういう定型句を使ったつもりだったからだ。
「え? だって、私デカいじゃないですか」
冗談めかして言ったつもりなのに、彼は真顔だった。
彼はいつも真顔だから、別に特別な意味はなかったのだ、と今では思うこともある。
「え? そうか? そうでもないと思うけど」
彼はこともなげにそう言うが、そんなはずはない。だって、彼は私と身長がほとんど変わらない。
「だって、女で170もあるの、私ぐらいだし」
「いや、まあ、身長はね。でも俺のほうが横はあるじゃないか。俺と並んだら君のほうが絶対小さいと思うけどね」
そりゃ、あんたと比べればね、この白デブ! と言ってやるつもりだったのに、私はなんだか泣きそうだった。
「ああ、確かにそうかもしれないですね。でも、世間の多くのひとは、そうは思わないんですよ。とにかく! 私は、大丈夫ですから」
もちろん私は泣かなかった。にっこり笑って振り返り、歩き出す。またも後ろから声が聞こえた。
「俺で良けりゃ愚痴ぐらい聞くぞ」
思わず振り返ったが、そのときはもう彼も後ろを向いて立ち去るところだった。声をかけれなかった。彼が見えなくなってから後悔した。
その後彼に愚痴ったりはしていないが、時々出会い頭にどうでもいい立ち話をするようになった。向こうには今は彼女がいないことは分かった。あと、案外食べ物の趣味は合うようだ。彼は朝、歯を磨いてから朝食を取ると言っていた。私は食事の後で歯を磨く。今の不満は、下宿先からこのお屋敷までが遠いことだそうだ。でも、私の下宿先よりは近いのだから、それは贅沢というものだろう。
そんなこんなで、『ほとんど会話のない同僚同士』という関係は、このふた月でなんとか脱却できたと思う。でも、先に進めていないのだ。『ちょっと話す同僚』からは全然抜け出せそうにない。
原因はなんとなく分かっている。
一つは私の周りに職場の女性陣がいつもいること。なぜなら私の周りにはいつも、背の高いから頼れそうに見えるという理由で私を頼る女性の同僚がたくさんいるから。向こうには全く悪気がないし、みんな良い人ばかりだから、むげにもできない。
もう一つは私が職場の男性陣に一線引かれていることだ。
男性陣としては、ヤキモチを妬いているようなのだ。私がいなければ本来自分達男性陣を頼るしかないのに、いるがために高いところの物を取るのは私の役割になっている。そういう細かいところが積み重なって、意外と彼らの神経を刺激しているようだった。しかも彼はそんな男性陣の真ん中にいて、男性陣の支持は絶大。
私の周りに人がいて、彼の周りにも人がいる。直接的なライバルはいないのに私には手が出せないのだ。
私の周りはそうでもないが、彼の周りは手ごわいぞ。
でも、私は思うのだ。
だって、ベタベタしたいんだもの。私よりもふたまわりぐらいおっきい彼に、抱きついちゃったりしたいんだもの。
彼のくりくりした目で私のこと見つめてほしい。
キスとか。もうちょっと先も含めて。
デレデレしたっていいじゃない。
悪趣味って? いいの。好きなんだから。
勝負はこれから。

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俺がこのお屋敷で召使やり始めてはや七年。早いもんだと思いながら歩いていたら、向かいから同僚の召使の女の子があるいてきた。
なんとなくボーっとしていたから、よう、と声をかけてみたが、返事がない。
「お~い、お~い」
「え? あ、すみません、何でしたっけ?」
予想通り心ここにあらずだった。
「いや、なんでもない」
少し心配だ。ここ数日お嬢様の様子が変だから、なんだか調子が出ない奴らがいる。この子もそのクチだろう。
「ちょっと休んだら?」
もう後ろを向いているその人に声をかけてみる。彼女はワンテンポ置いてから振り向いた。
「大丈夫ですよ。見た目通り、体力はありますから」
どういうことだろう。『見た目通り』? 何のことだかよく分からなかった。しかも俺には彼女が相当がんばってその言葉を出しているように見えた。
「見た目通りっていうと?」
「え? だって、私デカいじゃないですか」
何でそんなことを言うのだろう。全くわからない。
「え? そうか? そうでもないと思うけど」
こういっては悪いが、彼女のスタイルはあまり良くない。胸はまな板並だし、尻も確かに小さいといえば聞こえは良いが、平たいだけだ。骨太なわけじゃないし、太ってはいない。どちらかと言えば華奢なほうだろう。『デカい』というのは、ちょっと違う気がする。
「だって、女で170もあるの、私ぐらいだし」
ようやく納得できた。
そうか、彼女は身長のことを言っていたのか。確かに女で俺と大差ない身長と言うのは、かなり背が高いだろう。
でも俺にはどうしても、彼女が『デカい』とは思えなかった。なぜなら俺は自他共に認める巨漢。子ども時代にいじめられたりした記憶は幸いない。だが、気にしたことがなかったと言えば嘘になる程度には太っている。そんな俺だから、彼女の考えには同意できなかった。
「いや、まあ、身長はね。でも俺のほうが横はあるじゃないか。俺と並んだら君のほうが絶対小さいと思うけどね」
彼女は少しの間黙っていた。そして、驚いたようにこう言った。
「ああ、確かにそうかもしれないですね。でも、世間の多くのひとは、そうは思わないんですよ。とにかく! 私は、大丈夫ですから」
これが引っかかった。なんだか彼女は大丈夫ではないように見えた。『世間の多くのひと』から、実は傷つけられているのではないか? 彼女はもう後ろを向いていた。
「俺で良けりゃ愚痴ぐらい聞くぞ」
思わず口をついて出たが、だからと言って具体的にいつなにをするというわけでもない。
返事を要求するのは気が引けた。『いえ、遠慮しておきます』などとは言いそうもない人だが、一瞬そんな顔をする彼女が脳裏をよぎった。
だから俺は彼女の顔を見ないで済むようにすぐ立ち去った。
それから、彼女を目で追うようになった。少し話すようにもなった。
彼女は俺より五つ年下で、下宿は俺が住んでいるところよりも街外れにあるらしい。俺が下宿から通うのが面倒だといったら、それは贅沢ってものですよと嗜められた。鉢植えの花を育てているらしい。俺は彼女のことを、案外乙女チックな人なのではないだろうかと思うようになった。彼氏はいないとのこと。
こうやって立ち話をするとき、彼女はときどきいつもよりも小さく見えることがある。
仕事をしているときに彼女を目で追っていると、彼女が確実に俺なんかよりも優秀な召使なのがわかる。限に職場の女性陣は彼女をかなり頼っている。だから、彼女を見ていて悔しくなることがないわけではない。なのになぜだろう。二人で何度か話したときに時折見るあの彼女は、少し違う。彼女がふと目を伏せたり、笑ったりすると、俺はどうしていいのか分からなくなってしまうのだ。
こりゃもう俺は限界だ、口説こう、と思ったのは、話すようになってひと月目。
なのに、だ。
ここには分厚い壁がある。
ひとつは俺の周りの男性同僚諸君。
ただの同僚で、みんな気の良い奴らだ。そのなかで俺のポジションは、磁石のようなもの。俺がいることでなぜか人が集まる。人当りがいいのに割と無愛想で、ルックスが白デブだからさほどモテないのがいいらしい。
もうひとつは、彼女の周りの女性同僚諸君。
彼女は仕事ができる。だから、周りがみんな彼女を頼って群がってくるのだ。彼女自身はおそらく、背が高い女性への憧れのようなものが原因だと思い込んでいるが、世の中そんな馬鹿は少ない。背が高いという見た目だけでは、誰も寄ってはこない。デキるから、かっこよく見えるのだ。
二つの壁のうち、前者はたいしたことはない。
男の友情なんてものは、女が絡むと簡単に緩む。プラスにもマイナスにも働くが、彼女を狙っている野郎はありがたいことに誰もいない。だから、プラス方向に働いて『まあ、いいんじゃないか』というかたちで、俺の周りは許容してくれるだろう。
問題は後者だ。
彼女は全く気づいていないようだが、彼女を取り囲む女性達は、もはや崇拝の域に達している人も少なくない。メイドの服は似合っていないが、彼女は仕事振りだけでなく見た目もかっこよかったりする。細めの顔に、切れ長の流し目、細めの眉、小ぶりな鼻、小麦色の肌、唇だけはやや厚め。頬の肉が薄いので、女としては論外かもしれないが、男だったらさぞやという外見で、男どもの中でも真面目に嫉妬している奴がいる。
屋敷にやってくる肖像画家にだれぞが秘密裏に依頼した彼女の肖像画付きロケットは、大変高値で売れているらしく、依頼者はウハウハだとか。つまり彼女と俺が二人で仲良く話しているところが見つかろうものなら、俺が職場で女性陣に総スカンを食らうことも大いに考えられる。いや、それだけではすまないかもしれない。
これまでは自分と何の関わりもなかったこのファン活動、今は最大の難関になっている。
そのうえかなり妬ける。向こうは性別を最大限生かして、彼女の近くで親しくしている。半径五十センチの距離で日々語り合えるわけだ。
対する俺は、ほぼ目で追うだけの日々。たまに話せても世間話がせいぜい。
俺は指をくわえて見ていればいいのか?
答えは、否。
俺だって、彼女をこう、ぎゅっとしたかったりするのだ。
ろくでもない話をちょっとするだけであれだけ幸せなのだから、いちゃいちゃべたべたすれば俺はどうにかなってしまうかもしれない。
あの目を潤ませて俺のことを見てほしい。
キスだってしたいし、もうちょっと先もかなり切実にしたかったりする。
俺、並の男だな。
あとはこれから、努力次第。
よし、一丁やりますか。