ドラッグストアへようこそ 51

 耳だけは二つ折りにできた。
 その時、フォニーの体に、自らが背を向けた家のほうから未だかつてない感覚が横切る。
 風? いや、衝撃はない。
 しかし何か絶対に全身を通っていって、代わりに何かが抜け出て行った。
 今、フォニーは体中がフォニーではないもの・フォニーの持ち物でない得体のしれない重さに占有されているような感覚に満たされている。
 向こうのほうでダンゴムシさながらに丸くなったマルタン——こうなるからまるたんなの??——。
 周りにいる者たちもみな、各々が出来る限り丸くなって耳をふさいでかがんでいて。
 耳をふさぎ損ねたものは苦悶の表情を浮かべていた。涙を流している者もいる。
 その者たちはみな、膝を軽く折っていた。
—————あれ? なんで力入んないの?
 フォニーは自分自身の膝にも全く力が入らないことに気づいた。
 直後、自分の中を満たしていた重さが、スゥーっと抜け出していく。
—————涼しい。
 体の芯から爽やかなようで、でも何もない。
 自分の膝が完全に地面につき、そのまま倒れ込んでいく。
 フォニーの視界に入っている人間・魔物問わず、とりわけフォニーが出てきた家のドアの延長にあたる辺りにいる者たちが同じように地面に沈みゆくのが見える。
 フォニーの目線はその者たちとずっと同じ高さ。ということは、フォニー自身もほぼ同じ速度で。
 フォニー自身の意思が何もなくなっているような。
 時分の上半身が地面にベタっとついているのに、ざらついた感触をなんとも思わない。
 さっきまでは力が入らないという感覚があったのに、今やそれすら消えている。
—————声ヲ出…セナイ…
 断末魔になりそうなのに、考えがまとまらない。もうどうにかなりそう。
 動けない。考えることすらできない。
 フォニーは自分が何者だったのかも消えてしまいそうになっている気がした。
 フォニーの目の前に誰かの足が見えた。
 どこかで見た気がする。その足の周りにひらりと、汚い色の布が取り巻く。
 普段は謎のシミとかカピカピの何かがついてきた気がする。
 嗅ぎ慣れた薬草やらなにやらが染みついた匂い。
 安堵感。
 体の下に手が差し込まれ、フォニーの背中は抱き起こされた。
 膝にもたれかかるようになると、ベータの顔が一瞬目に入った。
 フォニーの後頭部にはベータの手があたっていて、首筋に少しだけ、湿って生暖かく、それでいてかさついた手のひらを感じる。
 見慣れた小瓶がフォニーの口に当てられ、やや強引に流し込まれていく。
 ゴクリ
 臭い。
 でも飲めた。
 そのまま空になった体にフォニー自身を流し込みなおすように、栄養ドリンクを飲み干す。
 二本目をスタンバイされると、それも飲み干し。
 三本目を飲み終わるころ、フォニーの体はフォニー自身によって満たされたようになり。
 そのまま数回瞬きをし、顔を上げると、ベータの見慣れた滑稽なアイウェアと目が合う。
 目のところの穴の奥が見えまいかと目を凝らしながら、とりあえず、
「これ、なんなの?」
 フォニーの声を聞くや否やフォニーの背中から膝を抜きながら、
「マルタンに聞け」
 落とされないよう、体に力を入れると、ちゃんと起き上がれた。
 地面に座ったままベータの後ろ姿を見やる。
 立ち上がって戻っていく家のドアのあたりには、魔王も含めてベータの家族が全員出張ってきていた。
 なんで?? と、フォニーはすぐ気づいた。
—————酒と料理が切れてるってことか! 結構時間経ってたの??
 フォニーは慌てて立ち上がる。
「料理持って戻りますので、もう少々お待ちを!」
 全力で叫んだが、なんだか皆さん、ニヤニヤしている。酔っ払いだからか?
 顔を見合わせ、全員同時にフォニーを見ながらビシッとサムズアップ。その中にベータが飛び込む。
 ベータの肩を魔王がガッツリ抱き寄せて叩いている。
 さっきまでの酔っ払いぶりとは、ちょおっとだけ違う方向で——フォニー調べ——目が輝いていた。
 ドアの向こうに皆が消えて行ったあと、
「マジでなんなの?」
 振り返り、マルタンのほうに寄っていくと、見たことがないようなおっかない顔をしている。
 その表情のまま、吐き捨てるように、
「…よくやった」
 眉間にしわが寄っているし目元はピクピク痙攣しているしこめかみに血管が浮き出ているし。
「言ってることと顔がズレてんよ」
「無駄口はいいから料理を運んで戻ってこい。説明は戻ってきた後でする」
 栄養ドリンク三本も飲まないと動けなかった時点で、フォニーが過去イチ死にかけていたのは明白だが。
 言われるがまま、両手に皿を載せて運んでいくと、ドアを抜けた瞬間ベータ以外の全員が一斉にフォニーの方に注目。
—————みんな目元が恵比寿顔。
 出てきたときには魔王はもう泣き上戸モードに突入するのかと見られていたのに、さっきのサムズアップからのコレは一体??
 ベータはといえば、さっきよりもひたすら縮んでいるが、顔色が赤黒い。
 普段があの土気色だから、酒に寄って顔色が赤くなるとこの仕上がり担って不思議ないが、外で見た時はこんなんじゃなかった。
 何があったのか分からず、考えていると、小柄な中年の腕が伸びて——文字通り伸びていた。そういう能力なのだろう。もはや些末なことだ——空いた皿を渡された。
 受け取ると、美魔女が頷いている。
「し、失礼しまー…ス」
 首をかしげながらマルタンのところに戻る。
 調理場からは小競り合いが起きていた時以上の数のタンカが出入りしており、やはり先ほどフォニーが食らった、おそらく魔王からの何かは攻撃的な威力のあるものだったのだろう。
「タンカが足りない!? んんん分かった。じゃあ、あの馬車の荷台の天幕を全部剥がせ! 棒はその辺の木から刈ってこい!」
 ゴーゴルの叫びが聞こえる。
 タンカの行き先では魔族が治癒魔法をかけて魔力を回復させているようだ。
 さらにその横で、王宮魔法師に魔族と人間がごっちゃになって列を成している。
「なおった! 耳治った!」
 こちらもまさかの治癒魔法。豚の姿の魔族がペタっとなったお耳を揺らしてプリっとしたお尻をフリフリとしながらコックコートを着なおしていた。
「で、教えてよ」
 マルタンの隣で、マルタンのほうを見もせずに命令口調のフォニー。
 マルタンもフォニーのほうを見もせずに、
「魔王様が泣き上戸なのは分かったか?」
「うん。今は全然みんなしてハピハピハピィ~♪な感じになってるけど」
「…そうか。ならいい」
 白~い声だ。むかつく。
「で?」
「魔王様はな、魔力が多くて」
「さっき聞いたわ」
「密度も高い。あのお体の中に、押さえておられるから、」
「聞いたって」
 ドアを開けた時に聞いた話をもう一度聞いているようだ。
「てかさ、ドア開けて、魔界への穴まで開けといてさ。そのうえでまた同じストーリー聞かされたって」
 フォニーの言葉を遮って、苛立ったマルタンが強め&早口でまくしたてた。