わるいおとこ

さっき確かにそこで三三九度を済ませたというのに、今ここにきてもなお分からない。
何がといえば、わたしがコレと結婚するということが。
暫しご歓談くださいのアナウンスでざわめきが広がり、入れ替わり立ち代わりやってくる友達、親戚、会社の人などなどなど。
義理というか儀礼というかで掲げられるスマホ・デジカメに笑顔。
『おめでとう』『ありがとー!』『キレイだね』『ほんと? 頑張った甲斐あったわ〜』『お幸せに!』『えへ〜〜ど〜も〜』。
毎回会話する私。
対する隣のコレから聞こえるのは、ぼそぼそとした『はい』『まあ』『え?』『いえ』『ん』『ええ』『ああ』。
毎回2文字以内。省エネだ。
普段二人でいるときもわたしが喋ってばかり。
返事が来たかと思うと『めんどくせぇ』。
それはこっちの台詞だと何度か怒鳴り返したものの変わらず。
お互いの距離はなぜか変わらず。
腐れ縁というんだろうか、学生時代に付き合い始めて6年。
とうとうこの日がやってきた。
なにをやってきたんだろうか自分は。
なんでこうなった。
そうだ。あのときユキに呼ばれて行った飲み会というか合コンというかの会に、コレがいたのが良くなかった。
飲めもしないビールに一口だけ口を付けて放置し、ずっとコーラを飲み続ける痩せぎすのコレは、くたびれて縫い目近くの色が落ちた黒いTシャツと、裾が擦り切れたGパンで胡座をかいて、話すでもなく盛り上げるでもなく淡々としていた。
顔はわたしのストライクゾーンに照らし合わせると、ひっかかるかどうか微妙なライン。
寝癖とおぼしき髪の毛のハネが多少マイルドだったのは、こういう場にくるときには直すものだという一般常識が一応はあるからだろうけれど、それを差し引いてもやっぱりNG。
中身だって確実にわたしとは別の人種。
なんで来たんだコイツ。いや、きっと断れない理由があったんだろう。
当時ーー実のところ今もーー、この手合いは割り切るに限ると決め込んでいた。
飲み会が苦手なタイプを無理に巻き込んでもしらけるだけだととっくに知っていたからだ。
わたしはお酒も飲みも好き。その時盛り上げ要員として連れてこられた自覚があった。
ユキの先輩の知り合いというカワトウさんはユキと喋って楽しそうだし、初対面のクメヤマさんの横にでも移動するかと入り口の隣の空いた席に陣取り、嬉しいことに気さくな人で、そう、楽しかった。
なんかゲーム的なことやんない? という流れになって、ユキの先輩も、ユキも、カワトウさんも、クメヤマさんも、あともう名前忘れちゃった何人かも賛成の声を挙げていたとき。
コレが突然立ち上がった。
おいお〜い、なんだよ〜、と全員から軽くブーイングのような。
『便所』
でかでかとそう宣言し、ブーイングは益々。
でも実質的には誰も止めなかった。
それはコレが飲み放題メニューに珍しく入っていたコーラを既にジョッキ3半杯空けていたからだった。
二つに分かれたテーブルの、よりにもよって真ん中を通って、わたしの横を通りすぎる。
すれ違いざま、唐突にかがみ込んだ。
よりにもよってわたしのほうへ。
耳元に吹きかけられた生温かくて甘くべたついたコーラ風味の吐息とともに、ぼそっとわたしにだけ聞こえるように呟かれた言葉は今なお鮮明に覚えている。
その一言だけ言うと、コレはわたしの肩をポンと軽く叩いて、気が済んだとばかりにそのまま目的地へと向かっていった。
んも〜やめてよ〜! と咄嗟に茶化すと、周りはひやかしの声を挙げた。
なになにと聞かれるその全部に、ナイショ〜、と適当にごまかして。
そのあとなんのゲームをしたのかはもう覚えていない。
コレはいつのまにか席に戻ってきて途中参加していた記憶がある。
なんでわたしはあのとき、あのあと、クメヤマさんにメアドを聞こうとしていたはずなのに、コレに聞いたのか。
クメヤマさんに聞けず終いだったのか。
そしてコレを映画館に誘ったのか。
その後にしたって離脱するタイミングはあったはずだ。
顔含めた見た目全般に加え、頭も、性格も、卒業する半年前に親が持って来た見合い話の相手のほうが絶対に良かった。
親が経営している会社を継ぐのに相応しいだけのビジネスセンスがある人だったし、一緒にいて楽しかった。
なのになんでわたしはあのとき、あの話を断ったのか。
1年前に同じような話が再びやって来た時も、なんで断ったのか。
二言目には『結婚は?』を大学卒業前からずっと続けていた親、これからは『結婚結婚家を継げ』と第二章に突入するだろうことを、断った後になって想像し、うんざりしたのはその通りだ。
でもだからといってコレに『結婚する?』と聞いたことの理由にはならないだろう。
聞いた後はトントン拍子だった。
『うん。する』の返事に続いて『来年の今頃に式をあげよう』『だとするとご両親へのご挨拶はいついつがいい』『式場は、そうすると』。
今、すぐ隣でむっつり黙りこくっているコレにしては異例の饒舌さと押しの強さで話が進んだ。
結婚させてください。いや、なんとしてもします。するんで。そういうことなんで。
言葉としては覚束なかったように思うけれど、コレが各所で広げていた話のトーンはそれぐらいの感じだった。
向こうの両親、うちの両親に加え、断った見合い相手に未練をほんのり残していたうちの祖父母も丸め込み、というより押し切って、今日になってしまった。
だから今日の式とわたしたちをはたから見たら、たぶん大恋愛のち大団円の様相に違いなかった。
なぜ、こうなった?
親や親戚に言われるがままに見合い結婚というのが癪だったのは確かにあったけれど、それを加味しても、自分自身、なんでこうも突っ走ったのか謎だ。
逡巡しても答えは出ない。
そもそもだ。
あの飲み会のとき、わたしには彼氏がいた。
好きで。そう。本当に好きだった。
全くだめな料理も彼の好物のレモンタルトだけは作れるようになった。
パーマよりもストレートが好きだと聞いて、即ストパーをかけて。
足が太いからすごく恥ずかしかったけれど、ミニスカで街を闊歩していたのだ。
偶々あの時期、お互い色々タイミングが合わなくて会う回数が減ってはいたけれど、好きだった。
好きだったのだ。
自然消滅なんて絶対させない。どうしたらいいの? そう考えている時だった。
思い出しても思い出しても、あのときわたしは彼のことが好きだった。
コレに対しての好きレベルは、あのときと比較すると、今も明らかに低い。
好きなところもまあそれなりにあるけれど、彼に向けていたエネルギーと比べると雲泥の差だし、恋愛かどうか第三者に聞かれたら
答えずらい。
自分でもわからないからだ。
じゃあ、なんで結婚するんだ?
もしそう聞かれたら。
こう答えるしかない。
『なんとなく』。
さっきまでわらわらやってきていた招待客は皆自席に戻っている。
思い出の回想映像を流す準備が始まった新郎新婦席の後ろのざわつきとともに、式場の、人によってはほんのり酔ったその客達を眺める。
不意にあのときの言葉が甦った。
『愛想笑いおつかれ』
ショックだった。
わたし自身にはあのとき、愛想笑いのつもりは全く無かった。
楽しいと思っていた。
言われて初めて気が付いたのだ。
9割は本当に楽しいと思っている、本音の笑いだったけれど、残り1割は確かに愛想笑いだった。
短い爪の奥が黒くなった、お世辞にも清潔とは言いがたい指先ーー当時は分からなかったが、今は機械いじりで付いた油と汚れだと分かるーーが辛うじて視界に入る位置にポンと軽く一瞬置かれた手。
あの『ポン』で、達磨落としのようにスパンと抜かれてしまった。
『楽しい』の、一番下にひっそりとあった愛想笑いの部分が。
そしてその上に乗っかっていた残り9割は、一段上になるごとに斜めに少しずつずれて重なり、辛うじてのバランスで揺らいだ。
なんであの1割にコレは気付いたのか。
聞いてみたら何のことはない。
『俺だったら疲れるだろうと思ったから、疲れてるだろうなと思って言っただけだけど』。
こんな年月付き合っているから、もう流石に分かる。
基本コレはわたしのごちゃごちゃした考えの中身なんて露知らずで、喋るときは思ったことをそのまま口に出しているだけなのだ。
だから口数が少ない。
言わないことはできても、会話の流れと空気を読んでささっと発言したり、ましてや言うことを状況に応じて変えるなんて器用なマネができるヤツじゃないのだ。
余程分かっている人相手でない限り、喋らない。喋れない。
喋ったら喋ったで本当に口が悪く、ちょっとチンピラみたいでーー実際のチンピラというのに遭遇したことはないけれどーー、そのくせ急に核心を突いてくる。
ケンカする度あんなに沢山罵り言葉を浴びせかけているわたしの意などまったく介さない様子で、それでいてコレが繰り出す会心の一撃は毎回確実にわたしに刺さっていた。
そんなこんなを繰り返してきたのに、なぜわたしは懲りなかったのか。この状態になっているのか。
さっきから暗転した会場に映し出されている先日の成果物、思い出のスライドには至極楽しそうな私とコレ。
今のわたしに覆いかぶさる靄を振り払いはしないその光は、それでもなお網膜に焼きついていく。
ぼーっとしていると、コレがわたしの腕を肘で突っついているのに気が付いた。
なんだろう。
するとコレは唐突に、わたしの顔、目尻に指を当て、下に押し下げた。
下げたままその指は動かない。
常日頃から、コレはよくこの動作をしてくる。
わたしは苛立っていたり緊張していたりすると、多くの人の例に漏れず笑っているときとは逆で、眉間に皺が寄って目尻が上っているらしい。
この動作はコレのささやかな主張だろう。
指摘されたからにはその手には乗るまいと、いつもいっそう目を釣り上げて対抗している。
そうすると面白がってコレが笑うので何とも腹立たしかった。
化粧が落ちるから特に今はやめてほしいけれど、人前、というか高砂で無下に振り払うわけにもいかない。
じっとしていると、その手は離され、視線も離され、スライド鑑賞中の招待客へとその注意は戻っていった。
その様を見て浮かんでくるのはときめきではない。
コレジャナイ感。
式中だというのに、のほほ〜んとこんなことやれてしまうあたりが能天気。
ケンカした時にそれを指摘して捲し立て、苛立っても、コレはいつも聞いているような聞いていないような感じで、そのくせ覚えている。
そして気にしていない。それが俺の仕様だと言わんばかりだ。
めんどくせぇ、とわたしに悪態をつくコレだけれど、わたしにしてみればコレのそういうところは本当にいつもいつも、コレの胸の奥の奥の奥まで手を突っ込んで掻きむしって跡を残したい衝動に駆られる、そのくらいめんどくさいところだ。
そうだ。コレより、あの人や、あの人や、あの人だったら、そんな風には。
でも一つ、思うのだ。
もし仮にあの一番好きだった彼と結婚するとなったとして、同じように多少のマリッジブルーになったとして、こうも自分の思いを明け透けにまとめられたろうか。
もしかしたらあの1割の愛想笑いのように、それに気付きもせずに全部を『好き』という言葉で一括りにしてしまったんじゃなかろうか。
それはそれでいいのかもしれないし、今がいいかといえば甚だ疑問だから余計に腑に落ちないのだが。
暗転した会場が明るくなり、再び暫しご歓談となるや、あのときのカワトウさんとクメヤマさんがやってきた。
なんでこの人にいかなかったんだろうな。
「おめでとう」
あのときの気さくさは、今もそのままだ。
「ありがとうございます」
クメヤマさんに疑問が残らないような表情で会話に持って行く。
縁だねとかなんとか。
話しやすい人というのはこういう人で、一緒いて楽しい人とはこういう人で。
一頻り私とコレにクメヤマさんが話しかけているそのとき。
視界の端に、カワトウさんがコレのほうに顔を寄せ、ニヤリとしたのが引っ掛かった。
「この人と結婚できて幸せなんだろ?」
「はい」
即答だった。
分かってしまった。
なんで今こうなっているのか。
わたしは悪い男にひっかかったのだ。
今コレがわたしを見ているのなら、その目に映っているわたしは、まんまと、さっきコレ期待していたような目尻になっているのだろうから。