りんごの皮をむく人は

何でこんな人のこと好きになっちゃったんだろう。
たった今その人物を目の前にして考えてしまう。もう手遅れだと分かっているのに。
出会いはサイアクだった。
国王の結婚式。表は確かに優雅だし、何よりおめでたい行事なのだが、ちょっと裏を覗けば、誰しもその騒乱ぶりに驚くだろう。
私はメイドだから、当然その支度に追われていたし、私の周りの人たちも同様に慌てふためいていた。『うわっ』だの、『きゃっ』だのいう声が、もはやBGMに過ぎないほどに。
ずっと一緒に働いていた双子の妹が国王の姉と共に隣国へ行ってしまってから、私は少し気が抜けていたのだろうと、今では確信している。
事件が起こったとき、私は来客の部屋のセッティングを終え、国王のお色直し用の衣装を取りに行こうとしていた。
確かに、私は慌てていた。だから、目の前に薄汚れた白い壁が出現したことに気付かなかった。
瞬間、私は目一杯突き飛ばされたらしかった。
「うあっ!」
声をあげたのは私。壁に変な角度で全身を叩きつけられたからだった。
しかし。
「気をつけろ!」
うずくまる私を見下ろしたその人を改めてよく見ると、コックコートを着ているのが分かった。
手には料理をのせたお盆を持っていた。来客用の菓子のようだ。小さなりんごのウサギがパイ生地らしきものの上にちょこんとのっかっている。
──―――料理長だ。
浅黒い肌とごく一般的な成人男子の体格をした栗毛短髪のその人物は、三十代前半という若さでその役職についたことで評判を呼んでいたため、私も知ってはいた。
しかしただ彼は、私を怒鳴りつけた。
「この料理が何人の人を喜ばせることが出来ると思っているんだ! お前一人にそれができるのか!」
「いえ…すみ…ません…」
反論出来るほど頭は働かなかった。あちこち痛むのを押さえて、立ち上がろうとした。相手はもう一度、気をつけろよな全く、と小声で呟いて、振り返りもせずに通路の向こうへ消えた。
そのあとすぐ、全身打撲で医務室行きになり、入院するはめになった。そこまでとは思っていなかったので、二、三週間は入院生活だと聞いて、驚いたのを覚えている。
病院に運ばれ二日後、何もやる気がせず、ベッドでぼーっとしていたところに、あの人物が入ってきたのだった。それも、無言でノックもせずに。
「あ」
私にはそれ以上の言葉が出せなかった。彼はコックコートのままで、ぶつかったときは全く気付かなかったのだが、消毒くさい病院には不釣合いなほどのコンソメ臭…いや、それだけではない。とにかく美味しそうな匂いを全身にまとっていた。
相手も何を言おうか迷っているようだった。それもそうだろう。何しろ自分が怪我を負わせた上、二日も見舞いに来なかったのだから。
「その…すまない」
こちらにゆっくり近づきながら無難な台詞を見つけ、ベッドサイドの椅子に腰掛ける。そして、手にもっている赤い球体に、ポケットから取り出したナイフを当てた。
目の前でくるくるとりんごの皮がむけていく。
「気が立っていたんだ。なにせ結婚式だったし」
りんごの皮は、親指を縦に半分にしたぐらいの幅でむけていたが、私がやるよりずっと薄くて、むくのも速かった。
皮をむきながら、彼は話をした。話していると、彼は私が思っていたよりずっと普通の人だった。
適当な大きさに切ったりんごを、こちらに渡してきた。
「ほら。食え」
「丸一個はちょっと…」
「そ、そうか」
結局、むいたりんごの四分の三は、彼が平らげてしまった。そして食べ終わると、すぐに部屋を出て行った。彼が部屋にいたのは、たったの十五分だった。
それから毎日午後四時過ぎになると、彼は病室にやって来て、りんごの皮をむいて、食べて、出て行った。
その間、いろいろなことを話した。仕事のこと、家族のこと、友人のこと、趣味のこと、心配事、嬉しかったことなど。ようするに、世間話だ。
彼は料理が好きで、だから当然仕事が好きで、それに全精力を傾けているらしかった。
あのときあんなにも気が立っていたのは、恋人に振られて間もなかったかららしいことも分かった。お決まりの台詞を言われてしまってね、と彼は苦笑いした。
「『私と料理、どっちが大事なの!?』って。迷って、料理の”り”を発音したと同時に、ビンタが飛んできて、『サイッテー!!』だって。その通りだよな。結局俺は彼女のこと、そんなに思ってなかったのかな」
「そこで”料理”じゃ怒るわよ。でも迷ったんでしょ? それに、そもそも別次元の話じゃない? 料理に対する”好き”と、彼女に対する”好き”は同じだったの?」
彼はそのとき、少し悩んで、分からないなぁ…と呟いて帰っていった。
二週間かけて、十五分だった彼との時間が三十分に伸びた。彼がりんごの皮をむくのは相変らずだし、ことが終るとさっさと帰ってしまうのに。
そのことに気付き、ごみ箱を除いてみたら、りんごの皮の幅が小指の半分くらいになっていた。しかも前よりも薄くなっているらしい。
彼はもう三十二。私が二十一だから、彼は十一歳も年上だ。あまり実感はなかった。
そして、二週間後。明日ようやく退院できることを、彼に伝えた。
「明日、来てくれる?」
「ああ、来れたら絶対」
彼は来なかった。私は予定の時間を一時間過ぎて、病院を出た。
突然始まった出会いは、突然終った。連絡先も何も聞かなかったし、向こうも言わなかった。どうしようもない。
そして今日、偶然、本当に偶然、彼に会った。
彼は前と同じ台詞を吐き出した。
「その…すまない」
「いいよ。そんなの…」
本当は、全然良くない。
「あの日、夕食に新作の料理を出すことになってて、思っていたより下ごしらえが上手くいかなかったんだ。それで…」
何でこんな人のこと好きになっちゃったんだろう。
「ほんと、気にしないで」
「そうか。それじゃあ…またな」
「うん…またね」
私はそう言って別れた。
その日の仕事が終って、自分の部屋に帰ってから泣いた。
でもどうにもならない。ひたすら、寂しい。

 

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二ヵ月後、王宮で舞踏会が催された。
結婚式のときほど慌しくはないし、そもそも舞踏会の規模が比較的小さいので、それほどでもない。ただ、やはり裏方がそれなりに忙しいのは同じようなものだ。
私は今、舞踏会会場で足らなくなった分のワイングラスを持って行くところだ。
彼は今ごろ厨房で仕事をしているのだろうか。まだあの薄汚れたコックコートを着ているのだろうか。くるくるりんごをむいているのだろうか。
もういいかげん、こんな風に彼のことを考えるのに疲れた。
疲れたなぁ、と思った。そして、そのときだった。
行き違う誰か、恐らくメイドの一人だったのだろう。肩がぶつかった。
私はバランスを崩した。
手にもっていたワイングラスが床で砕け散る。
そこに体が吸い寄せられていく。
あ、だめだ。
そのとき、目の前に薄汚れた白い壁が出現した。
彼は少し屈んで私を支えた。
私にわかったのは、踏みつけられてカリッと割れるガラス片、彼の荒い吐息と早鐘のように打ち付ける鼓動。
そして、彼の肩越し、五メートル程向こうに見えた、落下するお盆と、宙を舞うりんごのウサギだった。