昼と夜のデイジー 54

『出迎えがメイド長でないこと以外に大きな違いはない』。
これが四年ぶりに帰ってきた家の玄関の第一印象だった。
父親が薬物の違法取引容疑であれこれしたという話は手紙でもらっていたけれど、寄宿学校に缶詰の僕には何ら関係がなく。
これまでずっと夏休みどころか年末年始の休暇でさえ──寮の相部屋の残り3人にいぶかしまれつつ──頑なに帰省しなかったのは、そのまんまの意味で、ただただ家に帰りたくなかったから。
今回は寄宿学校を卒業し、大学への進学の境目。
下宿予定のアパートの入居時期が少しだけずれてしまい、一旦帰省せざるを得なくなった。
やだなぁ、と陰鬱になりながらドアを開けて今。
召使いの手によって二階の元自分の部屋に運ばれていく荷物を見やりながらため息をついた。
だって家に帰ったところで、仕事しかしてない父親とパーティー三昧の母親でほぼ家にいないはず。
色々あって家から出られない姉なんか、どうせ僕『で』暇つぶししたいだけの感じから何ら変わってないだろうし。
それでも実のところ、母親と姉はまだいい。
父親が嫌なのだ。
帝王学だか英才教育だかなんだか知らないが、小さいころからわずかな在宅時間の合間を縫って、僕にだけ我が家の仕事やらなにやらの裏話をちびちびと口伝してくる。
家業を継がせたいのだろう。
そんなもん知らねぇし、と汚い言葉で口答えできるだけの脳みそがないころからずっとそうだ。
僕が帰省に合わせてばっちり帰ってきそうだし。
家業を継ぐこと自体はやぶかされはないけど、ああいうグロいのは嫌だ。
上着やらなにやらを召使いに預ける。
どうやら予定通り母親も父親もいないらしい。
「姉さんは?」
「泊りがけで外出しておられます」
…え?
予想外の回答に面くらっている僕に、白くて丸々とした召使いはコートをたたみながらほほ笑んだ。
「坊ちゃまがいらっしゃらない間にいろいろあったのですよ」
僕が聞いていたのは、
その一.姉の家庭教師が学術論文の代筆容疑で逮捕され、現在服役中。
その二.メイド長が薬物違法取引で逮捕され、現在服役中。
その三.父親にも容疑がかかったが、証拠不十分でなにもなし。
の3つだけだ。
手紙を読んだとき、『ああ父さん、トカゲのしっぽ切りでメイド長差し出したな』と思ったけど、姉についてはノーマーク。
屋敷のからくりは僕も多少は知っていた。
姉は僕にからくりを使ったいたずらを相当仕掛けて来ていた。
あれだけ色々されたらそりゃ覚えるだろう。
それとは別に、父親の部屋のやつは十年前には聞いていた。
僕が知らないことになっていたのは、ひとえに将来家業を継いでから、僕がそれを知らないということにしておいたほうが便がよかろうという父親の計らいだ。
『僕がこの家の主になったら真っ先に入り口を塞いでおこう』
聞いた瞬間からそう思っていたが、事件が起きたことによって今の段階で既に仕掛けはふさがれているらしい。
僕だけが持っている父親からもらった書斎の合い鍵で父親の部屋に入る。
あの仕掛けの上──というか床全面に──漆喰のような床材が塗り込められ、以前の木目の上品な味わいは消えて寒々しい様相だ。
ただ父親の机だけは以前と同じように佇んでいる。
玄関をノックする前にこそっと見た外壁側からの隠し部屋への入り口は、同じようにみっちり塗り固められており、二度と誰も入れないようになっていた。
メイド長経由で父親がやり取りしていた違法薬物は結構な金額だったということか。
具体的な量はよく知らなかったけれど、メイド長と引き換えに膿──というかやましいところ──を出し切ったことにし、時期を見て再開していることだろう。
メイド長がブタ箱行きを許容したのは、娘さんの養育をこちらが今後も全面的に見ることになったからだと思う。
父親曰く、『昔始めたころに金だけで何とかしようとしていたら、仲介役に持ち逃げされかけて危なかったので、裏切らないように隠し事や後ろぐらいところがある人間を狙って弱みを掴んで使うことにした』のだとのこと。
最低だ。
でも効果絶大。
手紙にはわざわざ『借金』と隠語で書いてあったけれど、メイド長が昔どっかの男にのぼせ上ってできてしまった子供。
独り身の女で子供がいるとわかると、世話で突然休まれたりしたら困る&身持ちが悪いんじゃないかという理由から、とてつもなく雇用の入り口が狭くなる。
でも父親の計らいで逮捕された今も娘さんの自出はうまいことごまかされ、それなりの学校にまで通えているわけで。
そこんとこと引き換えにメイド長の今後の人生に大きな汚点がつき、出所後彼女一人分の食い扶持はだいぶ根性入れないとどうにもならない状況になるだろうとわかっているんだけれど。
それでも、メイド長は娘さんの将来と引き換えに彼女は条件を飲んだのだ。
WinWinの関係? いや、やっぱ最低だ。
別に正義漢ぶるわけじゃないけど、僕の代ではそっちの稼業はやめにするぞ。
父親が一代でこれだけの財を成したのは確かにそういうことに手を出していたからだってわかってる。
でも、今はもう既に金があるんだから、こんなタイプの荒稼ぎは不要なわけで。
そもそもあの頃は隣国との関係がだいぶ悪くて、国内も不安定なところがあったからやれたし、産業が他になかったから選択肢が少なかったけど、今は違う。
もっとクリーンな投資先がいくらでもある。
父親のようにリスクを冒す必要はない。
もうそういう時代だ。
そういう僕らの時代がそこまで来てるんだから。
あのとき手紙を読んで決意を新たにし、そして今ここにいる僕は、紅茶の湯気で眼鏡が曇ってできる白っぽく煙る視界を楽しんでいる。
菓子で山盛りのトレーを持ってきた召使いはゆっくりとそれを置いて、そのまま立ち去ろうとした。
「で、何があったの?」
僕から話しかけると、召使いはピタリと歩みを止めて向き直り、眉間にしわを寄せた。
「どこから話すのがいいんでしょうかねぇ…」
そんなに盛沢山なのか。
「結論から」
だって全部聞くの面倒そう。
召使いはそれでもなお渋い顔だ。
「そんなに?」
さらに丸い顔を俯かせ、黙って自分を納得させるかのように頷き。
「3年近く前に療養を兼ねて行かれた当時の家庭教師のご実家の近辺が大変お気に召したようでして。
なんでも滞在すると体調がいいのだとか。
薬も今は飲んでいない日が多いと伺っております。
実質、ほとんどそっちにいる状態で」
ほほう、もしかしたら僕が思っていたよりも、姉は賢いのかもしれない。
例の件に気づいたのか?
素知らぬふりで、実は裏があるんじゃないか感をにじませて召使いに聞いてみた。
「へぇ…それ、本当?」
召使いは少しだけ、目線を泳がせた。
予想通り裏があるな。
「その…ついでに家庭教師の方の家のメンテナンスなどもしているらしくて」
おっと、例の件がらみじゃないかも?
姉がDIYに目覚めるわけないから…じゃ、まさかの?
そんなわけないな。
「当時の家庭教師って、もしかして男?」
半分笑いながら言い放ち、ビスケットをつまもうと手を伸ばすと、当の召使いは渋い顔だ。
口元が緩んでぽかんと開いてしまった僕。
つまみ損ねたビスケットはそのまま皿に落ちた。
当の召使いはポリポリと頬を掻いている。
思わず居住まいをただした。
召使いを問い詰めるような口調になっているのに気づきながら、
「ていうかさ、家のメンテナンスって何してるの?」
男の家に上がり込んで家の中の家事なんかやってるって、もうそれ完全に同棲してるといえるんじゃなかろうか。
良家の子女としてアウトだ。
あれだけ家の中でやりたい放題やっていた姉さんだったけれど、家の外に向けては『そうなんですの?』なーんて、完璧に『貿易商の箱入りお嬢様』をやっていたところだけは実はちょっと尊敬していた。
体があんな状態だったから、世間一般で言う将来の夢的な類は全部諦めていたのは大きかったかもしれない。
でもそんな中、今の立場の範囲内でやれることをやろうとしていたんだろうと勝手に思っていたからだ。
開いた口をふさげないでいる僕に、家庭教師は続けた。
「当時の家庭教師というのが、事情があって今家に帰って来れないので、それで世話にはなっていたからと」
当時…3年近く前…あ、そうか、あの事件の時の。
ということは家庭教師の男って逮捕されて今服役中か。
つまり同棲はしていないけれど、またもまさかのNGキーワード、『前科者』。
不信感が募る。
「でも、そこまで? 人雇えばいいんじゃない?」
「まあ…それはそうなんですが…。
お嬢様とその方の、確かお祖母様にあたる方、当時ご存命で、その方と文通までしていましたので、多分ですが…余計…何かこう…情が沸いたんじゃないかなぁ…と…」
召使いの歯切れがどんどん悪くなっていく。
なるほど察した。
姉の一方通行か。