ドラッグストアへようこそ 31

—————あははははぁ~
 頭の中でだけわらっていたら、顔は引きつっていたらしい。
「口元の微痙攣はどうした」
「な、な、なんでもない゛っ」
 机の木目が見えると思ったのに、滲んで見えない。ぽたりぽたりと水滴が落ちていくのが分かる。
 ベータがグぅっとなぜか唸ったのは分かった。
 鼻水をすすり切れなくなったので、ハンカチで思い切り鼻をかむ。
「死にはしないと思う。そうなるように代替は手配している」
「ぐすっ…八〇と゛がい゛う゛や゛づ? あど…ズッ…ほかの酒?」
「そうだ」
 ぐずっくずっという自分の情けない鼻啜り音にますます泣ける。
「なんであんなとこにポンと置いといたのよ!!」
「持って帰ってきてすぐだったのだ。あの後すぐにしかるべき場所に仕舞っておくはずだった」
「亜空間に入れとけたじゃん! 袋につっこんどけば…」
「亜空間は時間がねじれている。酒は過度に熟成されたり、マイナスされたりして味に影響が出かねない。マンドラゴラ一〇〇は手運び前提だ」
「だって…でも…う…」
 ベータはため息をついているが、
「大丈夫だ」
 ハンカチを差し出されるがまま受け取り、鼻をかみ、折り畳み、鼻をかみ。
「私、魔王様の大事なお酒を…」
 死の一文字が頭のなかを埋め尽くして真っ暗になっていく。
 ベータのほうを向くと、口を一文字に結んでこちらを凝視している。
「昔はあの酒なしの宴席も多かったはずだから、それはそれと言い出すだけで済むはずだ」
 立ち上がって差し出されたのが例の栄養ドリンクなので、飲み干しながら不味すぎてまたひとしきり泣けた。
 この生活から抜け出すどころかもう魔界に居場所などない状態ではないか。
 さっきスミスが言っていた通り、人間界のどこぞで自活を目指し、いずれはどこぞの魔法使いとか何かに追いまわされ、ぶちのめされる魔族の一生を送るのか。
 いつもなら何かしらポジティブなことも浮かんでくるフォニーの脳裏だが、今は最悪の人生しか描けなくなっていた。
 実は嘘なんじゃないのかと疑う余地もない。あの天使と悪魔と国の使者と、この実力者ベータである。
 コイツの親が魔王でも、全然不思議はない。というか、これまでのベータの全部の怪行動に説明がつく。
 ベータは生まれた時からいきなり野放しにされた後付けボンボンだったのだ。
「ううっぁあああああ…」
 二日酔いで頭痛がひどい起き抜けのような声を上げながら頭を抱え、飲み干した栄養ドリンクの瓶をなぎ倒しながら突っ伏したフォニー。
 瓶を持ち、片付けてくれるベータ。
 戻ってきて、
「大丈夫だ。魔界のほとんどの生き物はマンドラゴラ一〇〇について知らない。
 父の側近含め、この行事に携わる者だけだ。魔界に戻ったところで急にはお尋ね者になることはない」
「『急には』でしょ!」
 ほとぼりが冷めたら人知れず即殺かもしれない。
 フォニーを見つめるベータが流石に呆れ顔に変わり、三度目のため息とともに、
「お前が自分で蒔いた種だ。
 言える話は一通りした。ここに居残るか逃げるか決めろ。あと二か月。
 決めたら、お前に掛けた術は外して、どこにでも行けるようにしてやる」
「もっと早くそうしてよ」
「事実を段階的に教えないと、受け入れられない。
 弱っていただろう、お前。
 その場で放逐して、何が何だかわからないまま魔界の使者に殺されても良かったのか?」
 ベータは苛立ちながら部屋から裏庭に出て行った。
 フォニーの職場に。じゃあ、フォニーは自分の部屋にしか戻りようがないじゃないか。
 抜いても抜いても減ったはずなのに生えてくる草を毟って不貞腐れていたころが懐かしい。
 ベータはフォニーが『殺される』といった。『暗殺』する価値はフォニーにはない。だって殺すことを隠さなくても何の問題もないから。
 暗澹たる将来を抱えたままベッドに横たわると、眠れるかと思っていたのに全く眠れない。
 そりゃそうだ。まだ全然宵の口。
 外に出るのも怖い。話を聞いただけで、世界中のあらゆる角度から杈——そう、人型の生き物を捕縛するのに『さすまた』という武器があるのだ——で閉じ込められている気がする。
 魔王様の年三回のお楽しみを奪った女として。
 マンドラゴラ一〇〇がそんな代物だったという発見が一瞬にして消し飛ぶようなことをしでかした魔族として。
 べータは大丈夫だというが、聞く限りほとんどこの年一回の飲み会でしか知らない程度の親の何が分かるというのか。
 フォニーにしてもそうだが、ただでさえ親子とか友情だとかいう情が薄い魔族だ。
 息子のベータについてならいざ知らず、どこぞの馬の骨のことなど構うものか。
 だからこそ、他所に出た時も——特に人の形に近い、フォニーのような魔力高めの種族はなおさら——つるんだりせずに単独行動ばかりなのだ。
 出所不明でだれの知り合いでもない魔族など…。
「だれの知り合いでも…?」
 フォニーは何か掴みかけている気がしたが、不安に押しのけられそうになっていた。
—————じゃあ、知らない人じゃなければ?
 フォニーがベータとは仲良くやれていれば?
 フォニーはベータの同居人ということになる。
 自分の息子の同居人とあれば?
 知らない人じゃない。
 でも、馬鹿だって思われたら?
 アウト。でもでも。
 イケてるって思われたら?
「それ!」
 フォニーは起き上がった。
 気づいたのだ。
—————魔王様に取り入るチャンスかもしれない!
 マンドラゴラ一〇〇の瓶を割ったから息子の同居人になった、のではなく、息子の同居人になることに決まった者がマンドラゴラ一〇〇の瓶を割った、というのはどうだろう。
 『うっかり』という理屈がつくではないか。
 大事なのは今であって、経緯ではない。元々そういう話でここに訪れたことにするのはダメか?
 さっきまでの脳裡が嘘のようにフレッシュに!
 ベータの横に並び、魔王と握手するフォニー。
 ベータの肩を魔王がたたき、またもう一方の手でフォニーの肩を叩き、二人の顔を見て頷いている。
—————アレ? これなんか違くない? …ま、いいか。
 なんとな~くフォニーが期待している姿と脳裡に浮かんだこのビジョンの間に乖離がある気がしたが、今そこにある危機と比べると些細な問題だ。
 自らの安全を確保しつつステップアップの階段を確保し、先々も末永く幸せな魔族の一生を送っていく。
 思い描きながら自室を出て、部屋を出て、階段を降りる。
 自分が流した涙と鼻水でグチャッとしたままのハンカチを洗う。台拭きで汚れた机をふき取る。
 一気に部屋が明るくなった気がする。
 素晴らしい! この家、いいじゃないか!
 ルンルンで小躍りしながら、洗ったハンカチを自室の部屋の窓に干す。
 自分の部屋まで明るくなった気がした。夜なのに。
 階下にまた戻るも、肝心のベータがいない。
 がっかりして椅子に腰かけたそのタイミングで裏庭のドアが開いた。
 ぱぁっと明るくなったフォニー、眉間にしわを寄せまくりのベータ。
「…どうした?」
 が重い響きで『ナンダコイツ』感を含んでいるのは、致し方なかったかもしれない。