昼と夜のデイジー 58

森は静まり返っている。
ドルはあんなに叫んだ後なのに、自分の中にまだ揺蕩う何かが残っているのを感じ、少しずつそれをささやくように口から吐き出し続けた。
「馬鹿なこと言うなよ」
ドル自身の声は明らかに震えていた。
「私、真剣なの」
デイジーの瞳は差し込む日の光を浴びて黄金色に輝く。
こんなに小さいのにまっすぐ大輪のひまわりのような力強さでドルを見据えていた。
ドルはその視線に囚われまい、絡み取られまいとした。
「僕は務所帰りだぞ。
君は良家のご令嬢だ。周りが許さないに決まってる。
それに、君の体じゃ無理だ。
何かあったときの医者もいなけりゃ、薬局も遠い。
そもそも薬を買う金がない。
ソマリは薬の常飲はしてなかったから何とかって感じだったんだ。
僕の稼ぎ程度じゃ食ってくのがやっとで、」
「だから、私も、」
「多少足しになる程度だろ」
その通りなのだろう。デイジーは黙っていた。
 少し悔しそうに潤む瞳・赤みが多少引いてきた切なげな顔はドルを黙らせてしまいそうになったけれど、ドルは心を鬼にした。
「犯罪者上がりで仕事があるかも疑問なんだ。
家庭教師は無理だろうから前やってた配達の仕事で食いつなぐことになる。
僕一人だったら何とかなるけど、って金額しか出ない。
その状態で、君がここで暮らす?
ありえない」
「大丈夫よ」
「大丈夫じゃない!」
「私の食費分とちょっとのお薬なら、何とかなるわ。
メイドに聞いたら私のごはんの量って普通の人の半分以下だっていうし」
「量の問題じゃない」
「ドル、私ね、あれから本当に勉強したの。
 お金のことも、薬の値段も、ごはんの値段もわかるのよ。
いろんな人に聞いたり、いつもより遠いところに散歩に出してもらったりしてね。
周りの人とか、お店とか、にぎやかなところとか、夕暮れの市場とか、今までは通り過ぎたり窓から見たり、本で読んだり絵を見たりしただけだった世の中をちゃんと見てきたの」
「ちゃんと?
嘘つけ、ガラス越しだろ。
馬車で送り迎えしてもらってお付きの人がいて説明してもらってって、上げ膳据え膳だろ?」
「…そうよ、でも、少しずつやってみたの」
デイジーが唇を噛み締めて震えている。
ドルは思わず抱きしめたい衝動にかられた。
デイジーがそれをするのにどれだけ犠牲を払ったか、ドルにはわかっていた。
3年前はほんのちょっと家の周りを散歩するだけでふらついていたのだ。
人込みや雑踏――ホコリやらなにやらでいっぱいのところ――に出たらどうなるか。
少しずつ様子を見て、行きつ戻りつする体と相談しながら諦めずに慣らして、許容できる時間とやり方を見つけたのだろう。
ドルの中に揺蕩っていた何かは、みずみずしくあふれてもう一杯になりそうだ。
「お薬が高いのは知っていたわ。
でも、少しずつ減らせないかと思ったの。
やってみた。
最初は全然だったけど、ほんの少しずつだけど、減らせてるのよ。
街中の散歩の時間を減らして、こっちに来る時間を増やしてからは特に。
週に1日2日なら、ちょっとしんどいことはあるけど、薬がなくても何とかなるようになったの」
ドルは今多少良くなったけれど、さっきまでの病的に白いデイジーの顔を思い出していた。
「『ちょっとしんどい』くらいじゃないんだろ」
「ちょっとだけよ」
デイジーがその点について折れることはなさそうだと判断し、自分の心の内をも無視して強引に論点を変える。
「今は良くても、この先いいかはわからない。
何年か先になって急変したらどうするんだ」
「もっと良くなってるかもしれないじゃない」
「ここはすぐに医者を呼べるところじゃないって君も知ってるだろ。
3年前に熱出したときに凝りなかったのか?
金があったって無理なんだ」
デイジーは右手に持った箒を掲げた。
ドルが見つめたその右手は小さかった。
「だから、練習したの。
体がちょっとおかしいなって思ったら、本当におかしくなる前にすぐに、自分でちゃんとお医者様のところまで行けるように」
ドルにはもう、限界だった。
涙の代わりにあふれるようだった。
「体がおかしいときにそれに乗って、もしさっきみたいにバランス崩して落っこちたら死んじゃうだろ!!!
君が死んだら僕は、」
デイジーの目の中の小さなひまわりはその種を一気に増やした。
「僕はどうしたらいいんだ。
だめだ。
 ダメに決まってるだろ。
あそこにいたら今まで通り暮らせる。
不自由することなんて何もない。
あったかくて清潔な部屋で、栄養のあるものを食べて。
辛くなったら休めるし、医者だって最高の人材を用意できる。
安全で安心できるところで穏やかに生きていける。
こんなとこに来ちゃだめだ。
貧乏で貧乏で貧乏な男の小汚い森の奥の小屋で、それに、周りの人間の風当たりの冷たさはここに通ってきてたんならよくわかったろ。
誰も味方はいないんだぞ。
そのうえ実際に今僕は元犯罪者だ。
君の家族だってそんなことする娘は対面が悪すぎて見捨てるだろう。
だめだ。
本当にここには何もないから」
懇願するようにデイジーの肩を掴んだ。
前に想像した通り小さくて、その骨の細さは手の中にすべて包めてしまいそうな気がするくらいだった。
デイジーの声は明るい。
「大丈夫。
ドルがいるじゃない」
掴んだ肩を揺さぶりたくなってしまったけれど、そうしたら折れてしまいそうで、ドルには怖くてできなかった。
「だから!
僕がいる以外何もないって言ってるんだ。
金がなくて、人脈もなくて、仕事もない犯罪上がりの二枚舌男の僕一人しかいないって言ってるんだ。
あの家に住んでいたら、きっと違う。
君は体が弱いからって諦めきってるけど、そんなの気にしないで君の中身を見てくれる男だって世の中にはきっと、絶対いる。
優しくて、賢くて、心も体もしっかりしていて、お金もあって、君のことを本当に気にかけてくれる、全部を用意できる男が君を迎えに来てくれる。
大丈夫。心配いらない。
だから何度も言うけど、ダメだ。
僕みたいなののところに来るために、全部捨ててきちゃだめだ」
ドルはさっきまでのデイジーのように息を弾ませた。
そんなドルに、デイジーはなぜか楽しそうだった。
「ドル、私何も捨ててないわ」
デイジーの肩に乗ったドルの手の力が緩む。
「お金は、お父様のもの。
あの家も、環境も、何もかも、私のものではないわ」
また反論したくなるドルを、デイジーはその笑みで抑え込んだ。
「でも、ドルに会ってから私はたくさん私のものができたの。
勉強して、一般的なことも、自分の体のことや薬のことも知ることができた。
召使いの人達のことを、家の備品じゃなくて人間として知ることができた。
外の世界を知ることができた。
ドルの言う『こんなところ』にだって、召使いと一緒にちょっとした期間滞在できるようになった。
家事だって休み休みだけど、ほとんどできるようになった。
今日だって箒に乗って、刑務所までドルのこと迎えに行けたでしょ?
私、やってみたら、できることがあるっていうのを知ることができたの」
ドルは嬉しそうにそう語るデイジーに、もう割って入ることができなかった。
「あの家にいた時間は必要な時間だったけれど、でも、違うの。
あそこにいたら、今まで通り安全に生きていけるのかもしれない。
でも、私が見たい未来は違う。
私が自分で見て、考えて、そして選びたい」
「でもそしたら君は」
「死んじゃうかもしれない?」
ドルはデイジーがそう切り返しながら笑うのを見て表情をゆがめた。
「ドル、あのね、」
デイジーは箒を掴んでいたその小さな自分の手をぎゅっと握りしめていた。
「私、あそこに閉じ込められてじっと長生きするよりも、ほんの一歩でもいいから、自分で選んだ道の上に進んで倒れたい。
そしてね、」
デイジーは笑顔を消して、ほんの少し不安げになり、そのまま大きく息を吸って、
「私が一緒にいたいのは、ドルが言うようにあそこでじっとしてる私を迎えに来てくれる誰かさんじゃないの」
ドルには今、この時、この世のすべてが止まったような気がした。
「私は、あなたがいいの」
デイジーはドルを説得しようとまっすぐドルを見据えながら続けた。
「だって、私は…っむぐ!?」
ドルはデイジーの体を頭から抱え込むように抱きしめた。
「えっ!? と、ちょ、え?」
自分の腕の中でもごもごしているデイジーの耳元にドルはささやいた。
「馬鹿だなぁ…デイジーは…」
反論するデイジーは、かつてドルが教えていたころ――本当に子供だったころの――名残を見せるようだった。
「っ知らないの? 馬鹿にバカって言うほうが馬鹿なのよ?」
「知ってる」
今たっぷりと、自分が大馬鹿で、今いるのは天国じゃなくて地獄の一丁目だと自覚しているドルに、デイジーはなお追及の手を緩めなかった。
「で、ダメなの? いいの?」
ぷりぷりとした口調のデイジーに、ドルは自分が家庭教師だったあの頃とあの頃のデイジーをちょっとだけ思い出しながらぼそっと呟いた。
「…うん」
「『うん』って?
合意? 無視? はっきりしてよ」
ドルによってさっきよりさらにくしゃくしゃになった黒髪をそのままに、紅潮したふくれっ面で潤ませた瞳を上目遣いにしてデイジーはドルに迫る。
―――――今は持ってくれ僕の理性。
残っているすべてをかき集めたドルは、普通なら心から湧き出る気持ちを込めて言うべきその言葉を、ものすごく入念に覚えた台本を読む感じで、でもそれが悟られないように述べた。
「一緒に住もう。僕も君のことが好きだ」
聞いたデイジーは一気に破顔し、ドルの胴体に思い切り抱きついた。
ドルは違う意味で生きた心地がしなかった。
ふわふわする足元を支えていたら急に、初めてあの窓から見た月明かりに照らされた悲しげで青白いデイジーが脳裏によみがえった。
今自分の腕の中にいるデイジー。
顔色はさっきよりかなり良くなったとはいえ、健康な人と比べるとちょっと悪いかも。
でもひたすら明るくて、今もこれまでのことと今後の話――こっちにき出した時期とか、ベッドカバーを補修したこととか、カーテンをきれいにしたこととか――をし始めているデイジーの黄金色の瞳を見つめる。
と、そこに映っていたのはドル自身の顔だった。
『相変わらずの自分』。
―――――お姫様を助けた王子様じゃ全然ないけど。
「ドル、色々の前に、あの…えっと…」
その探るような声に思考を中断されたドルは、意識を完全にデイジーのほうに向けた。
デイジーはそれを確認すると、一瞬何か逡巡した。
それから、意を決したようだった。
「一個、おねだりしていい?」
なにかと思ったドルはすぐそばにあるデイジーの顔を見つめた。
「前々から想像してたのとだいぶ違ったけど、ハグはしてもらったから」
デイジーは真剣な自身の顔の唇に人差し指を当て、そしてはにかんだ。