昼と夜のデイジー 57

多少ぐらつきながら1センチ、2センチと上昇する。
何か命令しているというわけではなく、『飛びたい』と思う気持ちに連動するように動くモップ。
―――――それが特殊なことらしいって知ったのは、教授の代筆をしだしてからだったな。
追憶は地上でドルとデイジーを追いかけてきた看守たちとともに遠ざかっていく。
まっすぐ上を見上げ、飛び道具すら構える彼らをあとに景色を確認。
「あっちだから」
デイジーが片手を離して指さすと、そのせいでバランスを崩したのか、デイジーがまたがっていた箒はぐらついた。
ドルの大きく開けた口から叫びが出るよりもデイジーの態勢が整うのが早く、先ほどデイジー自身が指さした方向にまっすぐ飛んでいく。
「ああ、もう!」
頭をばりばりと掻いて、ドルはモップの柄に乗せた両足に少しだけさっきよりも緊張感を持たせた。
一気に速度を上げると、デイジーの後ろ姿は次第に大きくなって真横に近づく。
「急ぎすぎ!」
もう刑務所は遠く、はるか下には粒のように小さい民家がぽつりぽつりと出始めていた。
「ごめんなさい。
ちょっと速度調整がまだうまくできないの」
「僕としても誰かが並走してる状態は初体験なんだ」
「ああ、そうなの!」
デイジーの声は思わず弾んでいた。
ドルがゆっくり飛んでいいところまでもう来ているというと、デイジーも速度を落とした。
さっきまで頬を切るように感じた風は今、穏やかに二人を撫でている。
息を整える沈黙を経て、デイジーは切り出した。
「ドルが手紙の返事を書いてくれなくなってから、私考えた」
自重したトーンだったその声は、ドルの罪悪感をあおった。
「で、決めたの! 勝手にやってやろうって!」
強調される声にデイジーのほうを向くと、ドルの目にはデイジーの、青白いのに嬉しそうな顔が映った。
「ここ3年、自分の家には週1回くらいかしら。
色々全部、勝手に、あなたの家に入らせてもらってました。
ご存命の時にソマリさんから合鍵もらってたから」
「それ、僕聞いてないんだけど」
「手紙に書いたわ」
「いつ?」
「え? 確か…」
日にちを聞いてドルは納得した。
読むのもつらくなり、来た手紙の封を切らずにそのまま捨てていた時期だ。
ドルの微妙な表情を読み取ったデイジーはやっぱり笑っていた。
「読んでないのね。ふふ。
いいわ、大丈夫」
あっさり許されることにドルはますます呵責を感じた。
「少しずつ生活の基盤はあなたの家に移しているの。
あとね、一つビッグニュース」
デイジーの話が半分くらいしか頭の中に残らないのは、残り半分でドルが別のことを考えていたからだった。
「雑誌に推理小説を連載しているの。
お父様経由で、頑張ってねじ込んでもらって。
ペンネームを使ってね、お世辞じゃなく、評判はそれなり。
そんなにすごい額ではないけれど、お金、稼いでいるのよ、私」
その楽しそうな声音。
ドルが知っていたのは、大人を装う子供のデイジー。
今ドルに語り掛ける彼女は、大人びているのにどこか子供を残している。
このデイジーは確かにドルの知っていたデイジーの延長線上だ。
熟す、というのだろうか。
それでいて変わらない不健康な顔色。
ドルの不安をあおった。
「箒とモップは静かにしていたけれど、手に取るとたまに動いたりしていてね。
モップはドルが乗っていたから、箒は私、なーんて思って試しにまたがったら、割とあっさり浮いたのよ。
 それで、ちょっと調子に乗ってっていうか、練習しだしてね。
体力的に限界はあるけど、このくらいの距離までなら…私、飛べるようになったの」
話ながら息切れしているデイジー。
頭に巻いたストールはずれ落ちそうだ。
飛びながらドルはその表情の変化を万が一にも見逃すまいと、顔の高さをずっとデイジーの位置に合わせていたが、ここにきてその距離を近づけた。
「あとね、薬も、減らせているのよ」
「そんなことして…!」
ドルは自分の口からデイジーの言をつづけさせないようにと飛び出した言葉の色があまりにも震えていることに驚いた。
「いいの。
でね…っだからね、ドル…一つ…提案があるの」
ドルは何か、熱い泥のようなものが胸の内から湧き出すような、不安な、それでいてずっとこの時を待ち望んでいたような、不思議な心持だった。
何かが怖かった。
「じゃあ、一回、下に降りてからにしようか。
そのほうが楽でしょ」
ドルは提案に乗じてお茶を濁すような自分の発言に自分で嫌気がさしつつ、冷静な大人の顔を取り繕った。
デイジーはそれを知ってか知らずか、
「ああ、そうね。
 もうそろそろ着くし、ちょうどいいわ」
ドル自身気付いてすらいなかったが、足元を見ると配達していたころに慣れた家路。
久しぶりの飛行の懐かしさなど、デイジーの前では薄かった。
あの森が見える。
小道が見える。
そして崖に面した小さな小屋。
あの頃と変わっていない。
変わらないようにデイジーが手入れしてくれていたらしい、呪われたドルの我が家が見える。
それなのにドルは涙が出たりしなかった。
思い出が走馬灯のようによみがえったりするよりも、すぐ隣のデイジーの息切れのほうがずっと気がかりだ。
徐々にその速度を落として降り立つ。
メイドか召使いがついてきているだろうことを想定していたけれど、今は留守なのだろうか人気がない。
「君一人?」
デイジーは箒を降り、息を整えている。
不安げに見つめるドルのほうを見もせずにデイジーはスカートの裾を直しながら答えた。
「メイドはいるけど、今買い出し中よ。
あなたやあなたのおうちの評判が大変よろしいので、だれもこの辺に近寄らないのよ。
治安抜群」
「それ、嫌味?」
「ええ、そんなところ」
あのころやり込めていたデイジーにやり込められることに嬉しさを感じ、ドルは自分がもう行きつくところまで来ていることに落胆した。
「時々空飛ぶ女も出るようになったし」
腰に手を当てて胸を張るデイジーはしかし、その直後。
「ゲホッゲホゲホッ…」
危うい咳音にドルは駆け寄り、背中をさする。
小さな背中は丸まり、うつむいて震えた。
「はあっ…大丈夫…ゲホッ…大丈夫だからッ…」
「嘘つけ」
咳が収まって息切れが収まって。
ドルの心配だけが収まる気配がないまま、デイジーの呼吸は整っていく。
デイジーの背中に当てたドルの手に伝わる震えがなくなると、デイジーはゆっくりと体を起こした。
はらりとストールが落ちて、くしゃくしゃになった艶やかな黒髪がのぞく。
やがてまっすぐにドルを見上げたその顔は、せき込んだ勢いか紅潮し、目はうるんでいる。
ドルはもうどうしていいのかわからない気持ちに駆られるのを抑えこんだ。
「家に入ろう。水飲んだほうがいい」
「いや、いいから。
大丈夫。
話、しよう」
「時間はあるから」
 デイジーはかぶりを振る時間も惜しいというように、
「いえ、今じゃなきゃだめ。
だって3年待ったもん」
またせき込みだしたらどうするのか。
不安でたまらない。
けれどそんなことで押し問答するほうがまずいと、ドルは観念した。
「わかった」
デイジーは少しだけ笑って真剣な顔になった。
ドルはかわいいなと思ったけれど、話の続きが待ち遠しくて、そして怖かった。
「あのね、だから、」
高らかにデイジーは宣言した。
「ここで一緒に暮らそう!」
ドルがここまで抑え込んできた様々な気持ちは今、一言に集約され、怒りにも似た叫びとなって辺りにこだました。
「何考えてるんだ!!!!!!!」