昼と夜のデイジー 56

「ドロテオ・G・コーウィッヂ」
「はい」
「刑期満了、っと。
で、ここに入るとき持ってきた荷物はそこ。
金はあそこ」
「はい」
「全部あるか」
「はい」
「じゃ、出るぞ」
入り口まで付き添う規則だからとぼやくように言った刑務官に導かれて門を出る。
入り口が見えた。
男が一人歩いてくる。
大柄で体格が良く、身なりも良い。
次第に近くなり、お互い顔が見えるところまで来ると、男はこちらに向けて言葉を発した。
「今日でしたっけ」
刑務官は勢い敬礼し、
「お知り合いで?」
「いいえ」「はい」
刑務所の道のどまんなかで変な間ができた。
「そんなに嫌われるようなことしましたか? コルウィジェさん」
「した。
 お前はたくさんそういうことしたよ、ヤマダ。
 もう忘れたのか?」
毒づくと同時に、入所前に使っていた偽名で呼ばれたのは久しぶりで、懐かしさがこみ上げた。
「『お嬢様』とはあの後ほぼお会いしていませんよ」
「僕も会ってない」
ヤマダは眉をひそめて怪訝な顔をした。
「断ったんだ」
「なぜ」
「そのほうがいいと思ったから」
傍らの刑務官はとっとと仕事を終わらせたい気持ちとヤマダを尊重しなければならない気持ちがせめぎ合っているようだった。
しかしドルもヤマダもそれに気づきながら、まったくその気持ちを汲み取るつもりはなかった。
再び変な間ができる。
「私がここに来るとき入り口には誰もいませんでした」
「本当に嫌なやつだなぁ。
事件のときもデイジーのこと気遣って止めるふりして、全部織り込み済みだったろ」
ヤマダの一言にうんざりしたようなドルの口調。
「お嬢様は」
一人意味が分からず、時間的にもいりいりしてきた刑務官をよそにヤマダはつづけた。
「自分に自信がない方でした。
でも強い気持ちを持てる素質はあった。
自分のフィジカルがキープできると判断したならば、『やめろ』と周囲に止められるほど絶対にやるタイプだと踏んだので」
ドルが舌打ちした。
「おかげで父親の部屋の仕掛けが明らかになるのが早くてたすか…」
刑務官が一歩前に身を乗り出したドルを止めている。
「おい、また戻りたいか」
ドルは刑務官の言にしおれた体を作った。
同時に彼は自分の職務を全うするためだと意を決したらしい。
「あの、もういいですか?」
「ああ、すまない」
ヤマダはそのまま建物のほうへ歩いて行った。
それを確認した後、
「出てからやってくれ」
刑務官は本音を漏らす。
立ち去るヤマダの背中を刺すように睨んでいたドルだが、しぶしぶ平常運転に戻した。
また歩き出し、入り口が近づき、柵が見える。
その向こうにはただ道があるだけ。
それはそうだ。ここはド田舎だから。
街とも、ドルの家ともデイジーの家とも警察署とも離れたところ。
誰か来るようなところでは決してない。
それでも誰かしらがいることに期待した自分がおかしかった。
ソマリは3年前にメイド長が逮捕されてしばらくした後、再度容態が急変。
逃亡する疑いがないことを背景に特例的に許された面会時間中にドルが手を取る中、息を引き取った。
論文を取引していた教授は当然もう会うことはできなくなっている。
最初のうちデイジーはドルに会おうとしていたようだけれど、数回断り、手紙も捨て続けるうち、連絡が来なくなった。
手紙は他の誰からも来なかった。
顔見知り程度の者しかいなかったけれど、きっと皆面倒になったのだろう。
いっそすがすがしい気持ちで柵の手前に立つ。
「これ、全員に言ってるけど、もう戻ってくるなよ」
「はい」
期待などしていなさそうな刑務官の言葉になおざりな返事を返して往来と空を見る。
草原。
道。
空。
雲。
風が強く吹いている。
何もない。
時計を見る。
もうちょっとしたら、頼んでいた馬車が来る…
…はずだった。
代わりに聞きなれた風切り音が二つ。
毎日配達で、通勤で使ったあの音。
全速力で飛ばしているときの。
見上げる。
人が乗っている。
そしてもう一つ、単体で何かが。
それは薄汚れたモップだった。
じゃあ、人が乗っているもう一つは。
近づいてくるその箒に乗っている人物。
頭と口元をストールで覆っている。
近づいてきたその目元。
確かに見おぼえがある。
その主に気づき、目を見張った。
「緊急うーーーーーー!」
その気づきに割って入る刑務所内の大きな声は、先ほどドルを送っていった刑務官だ。
空を見上げている。
「まにあったぁ~!」
懐かしい声が隣から聞こえた。
軽い息切れのあと、口元のストールを外し、
「あら? なにかあったの?」
デイジーは刑務所の中から人がわらわら出てくるのを見ている。
「なんだなんだぁ?」
「すっげえ速度で人が飛んできた。
 ひと悶着あるかもしれん。
あそこの入り口にいるやつだ」
刑務官一味はこちらを指さしている。
デイジーはといえば真剣な顔。
不思議がっているようだ。
ドルはデイジーの相変わらずなところに対する安堵感・箒に乗るなんてことができるようになったことへの驚きと敬意など、湧き上がる3年間に対するあれやこれやが薄れるくらい大きく、ため息をついた。
「空からあんな速度で変な箒に乗った人間が全速力でかっ飛ばして刑務所に近づいてきたから、緊急事態宣言されちゃったの。
脱獄の手伝いとかの可能性もあるし。
あそこにいる全員、君が僕の迎えっていう認識ないから」
「ああ…遅くなっちゃうと思って焦ってたから全然考えてなかった」
口元のショールを外すと、あのときから3年で少し大人びた彼女の顔が見える。
でも息が辛そうだ。
顔色もやっぱりあの頃と変わらず少し青白い。
でも、かわいくて、それでいてずっと綺麗になった。
どこが? と今もし誰かに聞かれても、説明に困るだろうけれど。
それに今はそんな感慨、近づいてくる刑務官を撒くのに邪魔になる。
ドルはそれをいったん空に投げることにした。
「今あの人たちに捕まってから二人して説明するより、実地で僕がそれに乗って二人して飛び去ったほうが話し早い」
デイジーが手に持つ箒に寄り添うように立ち上がったモップを手に取ると、なじむ古びた木の感触。
「飛んでから上で話せる?」
「やったことないけど、やってみる」
頑張って笑うデイジーを慮る余裕が今の自分にあるか、不安を抱えながらもドルは3年ぶりのモップに足をかけた。