昼と夜のデイジー 55

僕がそのこと──おそらく公然の秘密──を察したことを察した召使いはそっと立ち去った。
一口飲むと、紅茶はすでにぬるくなり始めている。
にしても意外だったな。
僕が知っている姉は恋愛云々どころかお子様ランチで止まっている感じだったから。
寮で見聞きしたり、こそっと1、2回友達と抜け出したして会った隣の女学校の女の子にも遠く及ばなかった。
お嬢様をやるために致し方なく整えた見た目。
普通は大人の階段をのぼりはじめて弟になんて見向きもしなくなる年で、女友達が欲しいとか言い出すこともあり得たのにそういうの一切なし。
あんなのの面倒この先見続けないといけないのか僕は、と嘆息していた。
まさか一足飛びで男とは、意外を通り越して感心する。
ただ、まあ、
「そんなに長くないかもしれないけど」
ついつい口をついて出た本当のことは、僕の声が小さすぎて誰も聞いていないだろう。
もちろんこの場合、『長くない』のは男との関係ではない。
父親は今まで姉の体調が悪いことを理由にし、この家経由で医薬品の裏取引をしてきた。
父親が男の背中を追いかける姉のそんな行動を許しているのは、おそらくだけれど『姉の体調』という理由付けがいらない取引ルートが確立できたからだろう。
何か姉が具体的に話を出したら、過去の取引の最後の証拠ともいえる姉と縁を切るつもりなのが見え見えだ。
父親から話を聞いた時の苦々しい思いが、あまりにも鮮明に思い出され、ビスケットと紅茶の味が血生臭くなった気がした。
体が弱い姉…。
父親は薬価が高い薬を扱うため、人間とは思えない業の深い理由づくりを行っていた。
姉に特定の症状が出るよう、生まれてしばらくしてから恒常的に毒物を飲ませてきたのだ。
確かに姉はもともと多少は体が弱かったのだけれど、薬の服用のせいでよりバランスが取れない状態になっていったのだと父親は自慢げにのたまっていた。
『デイジーの体に耐性がついて、多少の薬の量では効果が出なくなってくれた。
ギリギリまで高額の薬の取引量を増やすことができて万歳だ』
この言葉が父親の口から吐き出されるのを目の当たりにした時、自分もこの家もみんな消えてしまえと思った。
姉に対しては、だから、意地の悪い行動を僕に対して取るたびに、『かわいそうな人だ』と何も知らないことに同情していたのだけれど。
そしてさっきのあの話を聞いた直後は、てっきりそのことに姉が気づいて家を出ようとしたのかと思ったのだけれど。
実際は男を追っかけていたという、それはそれでアレな話だったわけだ。
ただ、あんなふうに毎日、薬を飲むことを前提にした生活をしていた人間だ。
それを絶ったら当然その『おつり』が来る。
生まれてからもう20年。
体が薬を飲んでいる状態に慣れてしまって、それで体ができあがっている。
つまり、本当に姉はもう、薬がない状態に耐えられない体になっている可能性が高い。
今は家に帰ってきたときは多分飲んでいるんだろうけれど、本当に家の外に出たらそもそも薬を手に入れることができない。
非常時の熱冷ましなんかはまだいいほう。
一番は姉が常飲している薬だ。
あれはそこらの薬局・医者はまず扱っていないような、とんでもなく高価な代物なのだ。
3年よく持ってるなぁというのが正直な感想。
あの事件後ずっと、男の家に行きっぱなしの生活をしているとすると、毒物・薬物ともに逓減させて――というか結果的にそうなって――、リハビリしている感じになっていると考えられる。
それでも、完全に断ち切るのは至難の業だろう。
僕の意見ではなくて、たまたま医者の息子だった寮の相部屋の奴の意見。
将来父亡き後も姉を養う必要があり、薬の違法取引をやめようと思っている身として、姉の薬を絶てないかと思った僕は、『体が弱い姉が常飲している薬を減らせないか』聞いたのだ。
恒常的に飲んでいる薬というのは大人になってから飲みだしたものでも逓減させる難易度が高く、リバウンドして症状が急変することもしばしばだという。
まして成長過程からずっとということなら、いわずもがな。
3年。
もしかしたら、姉が自力で自分の体がおかしいと、気づき出していてもおかしくない。
茶菓子をつまみながら、自分の宿命に関わる不幸中の幸い、2番目の男で長男だったことをかみしめた。
最初の子供だったら、父親のことだから男だろうが同じことをした可能性大。
そんな輩だとわかっていても、その父親の稼ぎで僕も姉も母親も生きており、この人数の人間がそこで雇われることで生計を立てている。
正義感ぶって告発すると誰も幸せになれない。
相変わらず紅茶が苦く感じる。
でもそのことに触発されて全然違うことに思い至った。
そういえば姉が追いかけている相手――元家庭教師の男――とやらには会ったことがない。
将来義理の兄になる可能性もあるのに、万が一父親以上に面倒な感じだったら嫌だ。
思い立ったが吉。
僕が顔を上げたときこちらに目を配ることを忘れなかった察しのいい細身で長身のメイドに早速聞いてみる。
思いのほかまともな奴のようだ。
屋敷の召使い達にも分け隔てなく、話していて気さくで。
貧乏でだいぶ苦労したらしい。
詐欺罪で捕まったにしても、中身が学術論文なんてお上の話で、一般庶民にほぼ無関係のところだったこともあり、召使い一同、同情するばかりだったという。
家族想いなところも好感度が高かったと語られて。
『それは家族って人達がいい人ばっかりだったからで僕んちみたいのだったら違ったんじゃないのか』と内心思うが当然そんな顔はしないでスルーした。
うらやましいような悔しいような。
そしてやっぱり意外なのは姉だ。
姉は召使いたちには、ちょっとだけ気になる、というようないかにも良家のご令嬢の初恋的な甘酸っぱい話をした以外、そんな顔をしていなかったらしい。
かつて『姉さんてホント馬鹿だよなぁ』と繰り返し自分に言い聞かせながら我慢して一緒に暮らしていた僕は、もっと姉は頭が軽い人間だと思っていた。
『なんで私のことだけ見てくれないの!?』みたいな、馬鹿なことその家庭教師に言ってそうだとかいう妄想の産物は砕け散った。
召使い達的には二人の恋を応援するスタンスの模様。
仕えているダンナサマが微妙な人物なのを皆察しているからもあるだろうし、それに、姉の体について前のメイド長ほど真実ごとよく把握している者がいないのもある。
ただそれ以上に、あんなに召使い泣かせだった姉が静かになり、真人間に向かっていったのは召使い―特にメイド――仲間で大きな話題になったらしい。
今はもう、いつの間にかいなくなるとか、いきなりものすごく遠方に行かないと手に入らないお菓子をねだるとか、病気がちなくせに仮病を使うとかはなくなったのだろう。
「でもちょっとだけ、あのころのお嬢様が懐かしい気がすることがあります」
寂しげな笑みでそんな顔をするメイドの気持ちは、今の姉と会ってみたら沸いてくるのかもしれない。
見送るメイドをあとにして、2階に上がって自分の部屋に戻る。
帰宅に合わせてベッドメイクされて綺麗になった空室が僕を待っていた。
でもそこは眺めるだけで済ませ、早々に屋敷内を再度徘徊。
事件のあと、ふさがれた仕掛け・見つからなかったとみられるそのまま残っている仕掛けをチェック。
自分の革靴の踵が廊下の木材を打つゆったりした丸い音がやけに耳に心地よく、帰ってきた感慨と、出て行った時とは別の場所のような不安な気持ちがないまぜになった。
トイレのドアのさらに向こうが見える。
姉の部屋のドアには、鍵はかかっていなかった。
事件の舞台となったその部屋のドアノブを掴んで回すとあっさりと開き、そんなことがあったとは思えない広がりを見せた。
本当に本当に婦女子のあれこれにうるさい貴族の家だと、血のつながった姉弟であっても男の僕が入るのも厳禁だ。
けどうちは新興の成金の下品さなのかあまりあのころから気にされていなかった。
いや、多分父親が僕に姉の存在という現実を見せたくて、わざと禁止しなかったんじゃないか?
なんにせよ、あの頃は姉の部屋に入ったのが姉にばれるのば怖くて、入ろうとしたことなんて一度もなかった。
だから姉の部屋は僕の記憶の中では、いたずらの被害にあったときに関わる断片的なものしかない。
本棚がなくなって、漆喰で塗り固められている以外特にこれと言って変わりない…のか?
カーテンから透ける日差しはぼんやりとテーブルとベッドを照らし。
主が半ば不在になって久しいそこは、僕の部屋とよく似ていた。
家具以外に物がなく、ベッドメイクだけされている。
昔の記憶をたどると、裁縫道具やら姉用の薬箱やら勉強道具やらが一見すると整理されているような感じで並んでいた。
実際のところはキッチンとかいろんなところからくすねた隠し道具を秘密裏に保管するべく綿密にカモフラージュが施されていたのだが。
そんな人がいたなんて信じられないくらいすっきりしている。
姉がよほどここにいないことをありありと語るこの様相。
後ろを向いてみると開け放ったドアから今歩いてきた廊下が見える。
ドアという額縁で囲まれた廊下はただ手入れされた壁だけ。
今の時間はランプなどつけていないので全体的に薄暗い。
姉はここから何を見ていたのだろう。
姉から離れれば個人行動もある程度許された僕と違い、姉は家の中からほとんど出たことがなかった。
家の外に長時間出ること自体が自殺行為になるような体だったし。
召使いの話では、件の家庭教師の男が来てから、姉はなんだかんだ楽しそうで、でも辛そうになっていって、そして大人になっていったのだそうだ。
学習机のほうに近づき、すぐそばにある窓のカーテンを開け放つ。
光が一気に室内を照らす。
学習机の上にチリ一つないのが見て取れた。
人がいないのに手入れだけは完璧になっているのも、僕の部屋そっくりだ。
窓の外は一定の距離を挟んで向かいの建物の屋根と窓。
布の仕切りがなくなったのもあるのか窓に近づいたせいなのか。
「テスト終わったしあともうちょいだよねー」
「来年、担任の先生だれだろ」
「もうその心配? 早くない? 休みの計画が先でしょ?」
丁度下校時刻なんだろう。
卒業式はどこも済んでいるけれど終業式まではまだ少しある。
窓から見下ろしていると、その女学生達と目が合った。
寮を抜け出して会ったあの女学校の女の子たちと似たような、はにかむような顔をした後、3人は足早に過ぎて行く。
もしこれが、あの姉だったら。
3人はぎょっとした顔で立ち去ったんじゃないだろうか。
女学生たちが溌剌と過ぎ去る後ろ姿を見送る。
―――――そうか。
かわいそうな人だとあの頃は無理やり同情することにして我慢していたけれど。
姉は、これを、毎日…。
廊下にそっと、もう一度目をやる。
窓の前に立つ僕の影がくっきりと浮かび上がっていた。
召使いたちに聞いた話を思い出す。
静かな屋敷の中と窓の外の喧騒。
姉はもうこの部屋に戻って暮らすことはないだろう。
たとえ姉の終わりが今よりずっと近づいたとしても。
何よりも正直にこのがらんどうが僕にそう告げていた。