昼と夜のデイジー 47

メイド長が何かなんて、あるわけない。
言い聞かせながら、デイジーは水をコップに注いだ。
今デイジーが事を起こす前に、メイド長に何かあるという可能性を伝えておけるのは誰だ?
いない。
先ほどのふるまいを鑑みるとヤマダも怪しい。
刑事たちにデイジーから喋ってもドルとの関係性からおそらく信用されないだろう。
もうデイジーには今やれるだけのことをやるしか道が残されていなかった。
ヘッドの枕元にある箱を漁る。
常備している体温計などの救急用品の箱。
物を取りに行く時間すら惜しいほど体調が悪化することたびたびだったデイジーの体を慮って、メイド長が用意しているものだった。
いたずらはしたもののわざと変な薬を飲んだりしたことはなかったため、整腸剤など薬の中では比較的安価なものは概ねここにあった。
そして今回必要になる可能性があるのはこれ。
下剤。
そして体温計。
デイジーは体温を測り、今熱などが出ていないことを確認した。
日にちと今の時刻に加え今の体温を机の上のノート──理科のやつ──の間に書き記す。
下剤をスタンバイ。
そんなので何とかならなかったらどうしようもないけれど。
でも、デイジーの悪い勘がもし当たっていて、メイド長が黒だったとしたら、おそらくこの水で死ぬことはない。
そんなことしたらメイド長が真っ先に疑われるから。
水を用意した人間が別にいたとしても、取り調べなどで警察の聞き込みは避けられない。
でも水に口をつけないことは許されない。
デイジーがこの水に対して疑いを持ったことに気づかれ、さらに凝った手段に出られたらもう手の打ちようがないから。
だから。
デイジーは仁王立ちして、コップに口をつけた。
考えに考えた結果の行動は、乾ききった喉を確実に潤す。
一口ずつ味を確かめたものの、デイジーにはまったくもってただの水にしか感じられなかった。
いつもの常温の水と違って冷たさが舌を刺すようだった。
コップの水をすべて飲み終わっても、これと言った異変は起きない。
気合いを入れていたデイジーは空になったコップを眺めて拍子抜けした。
─────全然じゃん。今のところだけど。
遅効性の毒物もあると聞く。
そういった類のものだと効果はもっと先だろう。
飲み終えた後、デイジーはもう一度体温を測り、さっきと特に変わりないことを確認。
水を飲んだ旨のメモを添えて、それを書き込んだ。
ドルがノートに書いたバツ印と、赤でなおした箇所が目につく。
指でなぞると、文字は筆圧でへこんでいるのがわかった。
「なんでこうなったのかな」
デイジーの声は部屋の中に霧散し、当然だれも相槌を打つ者はいなかった。
獄中のドルに今の状況を知らせることはできるか?
…できたとしても、何も変わらない。
誰かに頼りたい気持ちでいっぱいになるデイジーは、勉強をし始めたころの気持ちをじんわり思い出していた。
ドルは大人の男の人だった。
今、デイジーの中のドルは、大人の男の人でありながら少年のようだったり大嘘つきの悪党だったりした。
どれもドルで、デイジーはなぜか全部どうしても、嫌いになれなかった。
そしてデイジーは、自分が、いや自分だけができることがあるのだと、充実感を感じていた。
─────私が私として必要だ。
生まれて初めて自分の足で立つ小鹿のように震えそうになる。
デイジーは念のため枕元のベッドに横になった。
もちろん、下剤と体温計を、箱の取り出しやすそうな位置に戻して。
デイジーが恐れていた時が来たのは、夕食後の薬を飲んだ後だった。
─────このタイミングで?
体が重くてベッドから動くのがものすごくつらい。
調子が悪い時によくあった症状で、そんなに不思議でもないといえばそうだ。
疑いすぎかとも思った。
いつもならこの時点でメイド長を呼ぶデイジーだが、今日のデイジーは違った。
下剤を水なしで一気飲み。
効果が出るまで20分~30分かかる。
その間に熱を測った。
明らかに体温が低い。
平熱より1度強。
デイジーはまた理科のノートに夕食の時間・服用した薬・体温・下剤を飲んだことを書く。
ノートを閉じてしまうと、何とか横になった。
枕元の呼び鈴を見る。
これをならせばメイド長が来る。
でも、夕食後の薬を用意したのはメイド長。
いつも多少調子が悪い時に出しているのと同じだと言っていたし、実際味も同じだったけれど。
横になりながら、普段この状態で伏せているとき、どのくらいで回復したのかを思い出そうとした。
確か大体1日~2日。
可能性としてあり得るのはあの夕食の薬。
薬は滋養強壮剤のようなものだ。体温を下げる効果などないはず。
夕食の内容は毒見役もいるし、給仕は別の人間。
やっぱりあの水?
メイド長に黒さを感じたデイジーの色眼鏡なのか?
ぼんやりと過ごしていると、下剤の効果が表れたようだ。
デイジーはヤマダに会釈し、御手洗に体を引きずった。
戻ろうと御手洗のドアを開けると、ヤマダとメイド長が立っている。
「だいぶ時間がたっていたので呼びました」
「お嬢様、どうなさったのです?」
顔が引きつるかと思ったが、デイジーは自分が予想していた以上に体力を奪われていたらしく、顔の筋肉を動かす力もあまり残っていなかった。
「ちょっと、お水飲みすぎたみたいで…」
「まあ…」
優しいメイド長の表情が今のデイジーには恐怖神話に見える。
がくりと力が抜ける足。
ヤマダに抱えられて部屋のベッドに横たわると、メイド長は整腸剤を出された。
怖くてたまらないけれど、飲む。
流石にそんなことはないだろうと言い聞かせて。
そしてもし、下剤と整腸剤が本当にその名前の通りの中身で、水か夕食か夕食後の薬が何かあるのならという希望をもって。

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「おはよう」
「お嬢様、今日はお体は…」
「ふふ…」
わざとらしさが残らないようにぐったりと全体重をベッドに預け、力なく薄笑いする。
あの1~2時間後、デイジーの体調は夕食前とほぼ変わらなくなっていた。
だからこそデイジーは演技に気合が入った。
今、この目の前にいるメイド長こそが何かしらに関わっていると睨んでいるから。
水はあの後さらに取り換えられ、今朝はいつも通りのぬるい水になっている。
昨日の夕食と同じ薬が処方されているのは、飲んでわかった。
─────これで何もなければやっぱりあの水だわ。
メイド長が立ち去り、日の当たる窓の外を見やる。
メイド長の行動に色眼鏡をかけてみると、その怪しさがますます濃くなっていった。
小さいころから、メイド長はデイジーの身の回りの世話を焼いていた。
薬の扱いにはたけているし、それに関わることをやっても誰にも怪しまれない。
当然、その業者などとお金のやり取りをしても、だ。
この前の旅行の時も、確かドルが病院を見舞っているとき、メイド長は一度席を外していた気がする。
その夜、タイミングよくデイジーが熱を出したわけだ。
もしも、あれら全てがメイド長の仕込みだとしたら。
父親が絡んでいる可能性があるという点も、ほぼほぼ説明がついた。
あの父親なら、そんなのの操作の手が入っていると知った段階でトカゲのしっぽを切るように、実行者にすべてを擦り付けて切り捨てるだろう。
それがわかったメイド長は?
「お嬢様」
ヤマダが手紙をもって来た。
ソマリさんに返信で送ったものの、さらに返事…らしい。
開いて息をのむ。
確かにソマリの字。
でも、読めない。
あの病床で、あんな達筆なソマリだったのに、その達筆が崩れ、もうところどころしか文字として判別できなくなっていた。