昼と夜のデイジー 44

決行の日。
それは警察署に行った翌々日のこと。
父親は今朝発った。
母親は泊まり掛け。
弟はまだまだ寄宿学校ONシーズン。
刑事は取調中。
だからドルもまだ拘束中。
面会で気落ちし、体力的にも慣れない場所で疲れたデイジーはぐったり…。
しているかのような素振りをあの後周囲に振りまいて、下準備を入念に行っておいた。
そんな午後。
メイド長がおやつにとドライフルーツを置いていき、この後恐らく夕食前のあれこれで召使一同が出払うそのタイミング。
デイジーは自室のドアをそっと開けた。
いつものようにヤマダが立っている。
見上げて、行く先をチラリと見て、目配せで察してほしいと促す。
御手洗に行くとき何時もするように。
廊下の少し先にあるそこに行く時、ヤマダの方を振りかえらないように細心の注意を払った。
万が一にも感づかれないように。
チャンスはこの一回しかないから。
計画を思い起こす。
丁度御手洗の直ぐ横に隠し扉がある。
御手洗のドアを開けて、そのドアで隠し扉が丁度ヤマダから隠れるようにする。
御手洗のドアノブの内側を軽く引っ張り、惰性でドアが閉まるのと同時に、隠し扉の中に入る。
幼かったあの日、初めて転がり込んでしまったあの廊下から続く横穴に。
昼間はあのときと違い、多少周りが見えるから…。
はやる気持ちを抑え、御手洗のドアを開けた。
いつも以上にドアノブが重い気がする。
向こうに見える階段から登ってくる人がいないことを確認、横穴の目印のジグザグをそっと押し。
どんでん返しの隙間が開く。
立ったまま入れる、丁度御手洗のドアと同じ高さの扉。
真っ暗なその内側への隙間を開けたそこにデイジーは半身を入れた。
そっと、御手洗のドアの内側のドアノブに手をかけ、ゆっくりと音もなくそれを手前に引く。
お淑やかなご令嬢が御手洗に入る時にするように。
自分の身がドアから隠れるように。
髪の毛が傾いてドアからはみ出したりしないよう、廊下側とは逆側の肩に手ぐしで髪を掻き分けて掛ける。
半分ほど来たところで、ドアノブを少しだけ強く引っ張って手を離した。
さっと身を隠す。
どんでん返しが閉じきると同時に隣の御手洗のドアがバタンと、いつもより多少強く閉る音がした。
ちょっと引っ張り過ぎたかと反省するも、だとしたら直ぐ動かないととデイジーは気持ちを新たにした。
あの昔最初にここに入ったときは夜だったから本当に真っ暗だったけれど、今は午後3時過ぎ。
多少隙間から漏れる光で先が見える。
過去何度も何度も行き来したこの穴、先は屈まないと進めなくなっていた。
膝を付かなくても歩ける程度の低さなので、何かをよけるためとかそういうんじゃなくて、最初にここを作った人は背が低かったのかもしれない。
歩きながら、そんな考えを巡らせた数年前を思い出す。
この先の、あの角を曲がって、二つに分かれている所の間にある、更なる隠し扉。
それをそっと押し、その先の分かれ道を左。
そこから階段を下り、その先を右。
壁の向こうは調理室。
準備する声が聞こえる。
―――――ここからこの声聞くの久しぶり。
あんなに悪戯にいそしんでいたのがもう10年も前なんじゃないだろうかと思うくらい。
思いながら足元を虫が這う。
デイジーは当然のように慣れっこ。
御令嬢としては嘆げかわしいのかもしれないが、壁の裏側を探索しつづけたら平気にもなろう。
それどころかデイジーは噂話と妬み嫉みでぐちゃぐちゃの人間よりも、暗闇でひっそり暮らすこの虫のほうがずっと綺麗なんじゃないかとすら思っていた。
そんな所に出入りしているから病気がちなのかもしれないと一時期控えたのだが、結局悪戯と探索をやめてもデイジーの体調に改善は見られなかった。
それを免罪符に、デイジーは探索をつづけたわけだ。
そして、虫にも埃にも汚いのにも慣れた。
デイジーに過去を想起させた茶色くてカサコソするそれは、いいのか悪いのか、壁の下のスキマから食堂に出て行った。
「げぇっ!!」
壁越しに騒ぎが起こっているのを幸いに、デイジーは歩みを進めた。
「そっちいったって!!」
「あーー、待って待って!」
他人事の喧騒を聞きながら、突き当たりは行き止まり。
だがその一つ手前の天井に梯子を下ろせる天袋がある。
ここから梯子を下ろす。
音が漏れないか心配だったが、この騒ぎなら問題なさそうだ。
その登って、三歩ほど進んだ先。
経過時間を部屋から持ち出した懐中時計で確認する。
―――――3分、もうそろそろバレる。
いつものメイドなら5分だが、相手はヤマダ。
プロのボディーガードだ。
―――――急がないと。
流行る気持ちでその先の壁の、ジグザグに漏れる光を押す。
真正面にドア。
左右に人はなし。
調理場での騒ぎが影響しているのだろう。
本当に助かった。
自分が出て来たその場所の扉を静かに閉じる。
デイジーの部屋のある廊下を真っ直ぐ来て、曲った先に今デイジーはいた。
ヤマダが気づいたら直ぐバレる。
ここから階段も見えるから、向こうに注意しつつ…。
さっと耳の後ろに隠して留めていたヘアピンを抜き取る。
予め途中まで曲げておいたけれど、いけるだろうか?
さっとその場にしゃがみ込み、鍵穴を覗き、そこにヘアピンを差し込んだ。
何か凹凸にひっかかっている感じは分かるけれど、感触的にはちょっとした南京錠よりずっとハイレベルな気がする。
左右を確認しながら、利き手である右手を動かし、ヘアピンを抜き、曲げ直す。
穴の中を見通し、また差し込み。
―――――そんなにめちゃくちゃ複雑な感じじゃなくて、普通の鍵っぽいんだけど、なんで?
焦っているからか?
刻一刻と過ぎる時間。
早く、早く、早くと急くが、物音を立てるわけには行かない。
静まり返った廊下。
階下の喧騒。
―――――ああ、もう!
ヘアピンを持つ手に汗が滲む。
最後の施行。
鍵穴にヘアピンを差し込…。
「あっ」
小さく声が漏れる。
力が入り過ぎた。
手からヘアピンが飛ぶ。
こんっと、これまた小さく廊下に音が。
でもデイジーの耳にその音が入ることはなかった。
ヘアピンが飛んだ先に見えた、黒い男の靴。
ぬっと立ち上がる見慣れた山のような。
―――――足音、しなかった。一度も…。
「お嬢様」
ヤマダはいつものように静かにそこに佇み、デイジーを見下ろしていた。
その右手は、ジャケットの前の合わせ目から静かにその内側に差し入れられた。