昼と夜のデイジー 43

警察署から戻ったデイジーは自室に引きこもった。
今にも倒れそう、そんな体で。
でも頭の中では考えていた。
あと一日二日落ち込んで部屋に篭る様子を見せておけば、恐らくメイドが手薄になる。
いままで何時もそうだった。
ヤマダが来てから余計に、見張りがいる分メイドがいないことが増えたのも好都合。
この部屋には御手洗がなく、そこに行く時まではヤマダは付いてきたりしない。
とすると。
デイジーの脳裏には、この家の秘密の通路の見取り図が浮かんでいた。
―――――この廊下の脇の、あの暗がりに入り込んだあの隠し通路を抜けて、一度下がって上がってとかして、廊下に出たら、お父様の部屋に出る。
鍵が掛かった父親の部屋に入れるかどうかはデイジーの腕にかかっていた。
机の引き出しを開ける。
ヘアピンが何本か。
どうしても必要で出席したパーティーの後でくすねたものだった。
簡単な錠前ならいいが、父親の書斎の鍵がどうなっているか想像も付かない。
この家を移築した年代と同じくらいのものであればおそらくあの辺の戸棚と大差ないはず。
そんなに凝った作りではないから、1、2ヶ所ヘアピンを折り曲げてごにょごにょすれば、戸棚を開けたときと同じように開くだろう。
悪戯令嬢として培った技術力がこんなところで生かされるとは思ってもいなかった。
そんなデイジーでさえ父親の書斎に入ろうと試みた事がなかったのは、なんだかんだで父親が多少怖かったのと、それ以上に父親に関する何がしかなんて見たくも無かったからだ。
部屋に鍵をかけていたのは父親だが、その点から言えばデイジーが父親に関して鍵をかけていたとも言えなくはない。
とうとう鍵を開ける時がきたのだ。
メイド長は割と簡単にすり抜けられるだろうけれど、ヤマダを撒くのは難しいかもしれない。
どうするといいか。
思案しつつも面会の出口でヤマダを睨み付けていたドルも気になる。
なんであんなに敵愾心剥き出しだったのかデイジーにはわからなかった。
『信頼するな』なんて、嘘でもなかなか言わない気がするのだが。
それに、だ。
ドルは平静を装う嘘はたくさんついているし、誤魔化し笑いもたくさんしている。
でも、わざと不機嫌になったり悲しい顔をしたりしたことは無かった。
普段があからさまに胡散臭い感じだったから余計にそう思うのか、『真剣な顔でいらだちながら「あいつを信頼するな」と口にする』という嘘はつかないような気がするのだ。
でもデイジー的にはヤマダは普通に優秀なボディーガードだった。
線引きはきっちりしているし、余計なことも言わないみたいだし。
父親ジャッジも問題無しだったわけだ。
召使がメイドとなんやかんやあったりすることも過去あったらしいが、ヤマダはそういうことが一切ない。
というか、余りに無愛想かつ無言のため面白くないらしい。
メイド間ではヤマダを通り越してドルを懐かしんでいるようで、よく話をしているのを部屋の外で見かける。
そんな噂話をその家のご令嬢の聞こえるところでしてしまう辺り品がないと言ってしまえばそれまでだが、デイジーのこの家での身分はそんなレベルだった。
寄宿学校の弟の一時帰省時は絶対にそういう話が聞こえなくなるあたりが分かり易い。
苦いものを飲み下し、デイジーはドルの言っていたことを無理矢理思い出した。
ドル自身はやっていない、論文の取引の届け先は知らない、と言っていたが本当にそうだろうか。
実の所、論文の取引だけは届け先を知っていて未だに言っていないんじゃないだろうか。
薬物の裏取引は取って付けにしては詳細だったし、デイジーも考えていはいたことだったので納得できたものの、あの受け渡し方法についてはなんだか変だ。
執筆を請け負ったということは、誰かとやり取りがあったということで。
それに自分が書いたものなんだから、後から誰が発表したかわかるではないか。
調べたら簡単なことだ。
何の論文かデイジーが聞いた時にドルが遮ったのを思い出す。
―――――もしかしてドル、そこらへんだけ自白してないんじゃない?
どうやって言い訳しているんだろうか。
例えば、『主題となる参考情報だけで、改変してもいいみたいな形で資料供与していました』。
『だから、それをどこでどう使われているのかは知らないんです』。
『あくまで仕事で、興味もないから調べてませんよ』。
…ありそうだ。
勿論グィーガヌス刑事が納得するかは別として。
飄々と言い訳するドルが易々と浮び、デイジーは笑いたくなった。
もういっそ清々しい。
それを憎めないのは贔屓目かもしれない。
机の片隅のノートと鉛筆が懐かしい。
今警察署の取調室にいるだろうその大嘘付きもドルなのだ。
なんとか彼を助けられないか考えているデイジーは大馬鹿なんだろう。
ドルは『デイジーは頭悪くないから』とか言っていたけれど、
―――――全然、おばかさんだわ。
悲観的になれないのは、ドルの笑う顔が、嘆く顔が、自信ありげで、それなのに不安気な顔が浮かぶからだった。
ソマリの手紙が言うように殆どを諦めてきた彼が、諦めきれない何かのために嘘をつく、その理由が知りたい。
いままでデイジーは何となく色々やらかしてきたが今回は違う。
デイジーには目的があった。
散々色々悪戯三昧して培ってきた能力を、今回フル稼働させることになる。
実はこれは前々から思っていたが、デイジーは場所を覚えるのは得意だった。
大体の距離感で、屋内の部屋割りと裏ルートの位置関係は一発で当てる事ができる。
そのくせ見取図などはない。
描こうとしたことも、描いてくれと言われたこともない。
何故かといえば、絵や図を書くのが壊滅的に下手だから。
そして場所を説明するのも下手くそ――『覚えてな〜い』の嘘も勿論含んで――だから。
デイジーの脳内的には完璧に製図できているのだが、外に出せなかった。
だから取り調べのときも刑事から突っ込んで聞かれなかった…らしい。
過去デイジーがなんとか授業を受けていた転頃の刺繍の練習用下書きの数々を刑事に見せたうえ、過去デイジーがやらかしたあれこれとその経緯、デイジーの記憶の曖昧さを説明したというメイド長の御言葉だ。
この前の旅行中のスケッチも後押しに役だったらしい。
絵が下手なことが秘密を守るのに役に立つとは。
あるのも能力、ないのも能力ということか。
おかげでこれからの数日は、デイジーのやりたい放題だ。
誰もいない部屋で一人ほくそ笑む。
こんな状況なのに今までにないくらいのワクワク感。
悟られないような表情を作れているだろうか。
ドルが来て、逮捕されていて、ソマリの命が危ないというのに。
デイジーは面白がっている自分が少し怖かった。
これまでにないくらい他人の気持ちや性格や、とにかく自分以外の人のことをたくさん考えている。
それなのに、これまでにないくらい、デイジーは冷たい自分に気付いていた。
沸き立つ熱さなのに、芯のところがすぅっと冷えている。
こんな自分がいたなんて。
日が翳る窓のカーテンを閉める。
その隙間から差し込む光が姿見に細く差し込み、部屋の中をふわり舞う細かいチリを照らした。
姿見には今迄と同じ――でも自分ですら得体が知れないと気付き始めた何かが入っている――デイジーの姿が、仄暗く映し出されていた。