昼と夜のデイジー 38

窓から入る日差しが明るい。
ドアが開く音がしたので起き上がってそちらを向けないかと思ったデイジーは、ゆっくり肘をベッドに付いて上体を持ち上げてみた。
が、予想通りふらついた。
「お嬢様!」
慌ててメイド長が水差しと給水器を持って駆けてくる。
「ご無理なさらないでください」
うらめしげに給水器から水を啜ると、いつもよりも生温い気がした。
メイド長の手の甲の血管と皺は、辛い時の馴染みの風景で、旅行先とは思えないのも同じく残念。
「お熱、下がったみたいですね」
あのあと薬が届き、おかげで一晩にして意識は回復したものの、まだダルさと軽い吐き気が残っている。
全快まであと1週間というところだろう。
勉強どころじゃない状態のまま、ドルの休暇が先に明けてしまう計算だ。
療養という名目が、こっちに来たことで現実になってしまった感。
こんな実績ができてしまったことにより、今後デイジーの旅行は難しくなるかもしれないという暗澹たる事実。
また一つ楽しくない旅の思い出ができてしまった。
薬は熱冷ましではなくいつものやつ。
慣れた苦味が悲しい。
が。
「ないって言ってたのに手に入ったのね。あの熱冷まし」
メイド長はびっくりした顔で、
「聞こえていたんですか?」
「ぼんやりと、ね」
メイド長が喋ると、軽くたるんだ顎下の肉が揺れた。
「…コルウィジェさんが手に入れてきてくださったんです」
―――――なんで言い淀んだの?
胸騒ぎがする。
「そのドルは?」
メイド長からの返事がない。
「何があったの?」
メイド長は目を伏せたまま、唇を開いたり閉じたりしている。
デイジーは力を振り絞って、一気に起き上がった。
案の定ふらついたデイジーは、メイド長の腕に軽く体重を預け、それでも目線はその顔から逸らさなかった。
「ドルは?」
メイド長は一瞬だけ怯えたような顔になった。
「何が、あったの?」
メイド長の伏せた目が泳いでいるのは、デイジーにはっきり分かった。
思わず呼吸が荒くなる。
そのまましばし膠着の後、観念したのはメイド長だった。
「警察です」

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部屋を出るメイド長の後ろ姿を見送った後、デイジーは再びゆっくりとベッドに体を横たえた。
メイド長の話をまとめるとこういうことだった。
デイジーが高熱を出し、薬が近くの医者に無かったと分かったその後。
『大丈夫ですから』と一言してドルが居なくなり、小一時間で戻って来て、薬を置いていったのだという。
そして翌朝――つまり3時間程前――、デイジーの状況確認に来たドルは待ち伏せしていたグィーガヌス刑事にしょっぴかれていった。
『ここに留まって張り込んでいた刑事さんから昨夜コーウィッジさんが動いたのを聞き付けて、グィーガヌス刑事が…なにか道具でも使ったのでしょうか、とにかく魔力波動がどうとか、と。
それで、その場所をつけたら、上空を飛んでいる赤い髪の青年と、それを追う謎の飛行物体が見当たり、着陸場所がこの周辺だったので、と』
間違い無い。
ドルはモップで飛んだのだ。
どこで薬を手に入れたのかは分からない。
でも。
―――――なんで?
今、『お祖母様』の容態は、持ち直したとはいえ危ないのだ。
デイジーが見舞に行くことを決めたその時のあの喜びよう。
あの人がソマリさんという赤の他人だったとしても、ソマリさんがドルの大切な身内であることを示しているに違いない。
今捕まったら、もしかしたら死に目に逢えないことだって。
デイジーはソマリさんのお見舞いのとき、自分が思ったことを改めて思い起こしていた。
『自分のことを心配してくれる人なんていないのに』。
あのグィーガヌス刑事が目を付けたのだ。
ドルに早期釈放はあり得ないだろう。
だとすると、今回ドルがしたことは。
デイジーにはそのことが全く嬉しくなかった。
寧ろ自分のこの弱い体のどこかの肉を、ナイフか何かで抉り取られるような痛みすらあった。
誰かが自分の事を思って何かしてくれたら、きっとどんなことも嬉しくて飛び上がりそうになるだろう、そう信じていた。
ドルがデイジーの命と、ソマリさんの最期の時間を引き換えにしたかもしれないという想像は、繰り返しデイジーを鞭打った。
その交換は成り立つものなのだろうか。
仕事は? 対価として、お金がある。
親子の情は? 義務として、法律で縛られている。
じゃあ、思いやりは?
小説や絵本の世界では無償だったそれにも、実際には何かあるんじゃないだろうか?
例えば時間とか、体力とか?
受けたことがないデイジーには、その対価が一般的に何なのか皆目検討も付かなかった。
ドルが支払った対価は、仕事対象かつ誰にも望まれないデイジーの命と引き換えにするに相応しいものとは到底思えない。
何か裏があるんじゃないだろうか。
こんなかんじで邪推しては邪推する自分をなじるという堂々廻り。
タイミング悪く熱を出したデイジーが悪い訳ではない。
でも、弱い自分の体をここまで憎んだのは初めてだった。
そしてドルがしたことが純粋にデイジーのためだったとしても、それをしたドルが恨めしかった。
ゆっくりとまた体を起こし、給水器にメイド長が置いていった水差しから水を追加する。
一息つくと、静かな中に外を飛ぶ烏の嗄れた鳴き声。
飛び立つ彼等がうらやましくなったそのとき、水差しから零れた水が手に掛かる。
はっとした。
―――――今、私にできることは?
デイジーにはできないことだらけだ。
でも出来ることを一度でも探しただろうか。
状況をもっと知るために、今のドルと、デイジーと、事態を知るために。
事実を知るために。
―――――ドルが逮捕されたのはなぜ?
―――――ドルのお祖母様が赤の他人なのはなせ?
―――――あるといっていた薬が無かったのは?
―――――学術論文の裏取引って?
―――――あの外壁のジグザグは?
人が話す全てのことが本当とは限らない、いや寧ろねじ曲がっていることのほうがずっと多いのはとっくに知っていたはずなのに。
烏が飛び立った後の窓の外に残った木々は、静かに佇んでいる。
―――――恥ずかしい…。
デイジーは自分が自分でやりたくないことをやらないために、都合良く考えていたことを思い知った。
都合良く、信じたい所だけ信じて、信じたくない、信じる気にならないところは信じてこなかったことを。
疑いを持たなかったことを。
今できること…それを必死で、足りなくなった血液を脳味噌に回して考える。
悪戯は幾らでも考えることができた。
ドルの予定を聞き出すために、多少の演技をしたこともあった。
何時の間に安全なところに隠れて、何もしないことに慣れてしまっていたか。
自分を一頻り叱咤した後、デイジーはベッドからゆっくりと降り、壁伝いに立ち上がった。
ドアにたどり着きゆっくりとドアノブを回す。
開いた扉の向こうに立っている岩山のような男。
「ヤマダ、ちょっといい?」
世界が廻りそうになる眩暈の最中だというのに、ヤマダの片眉がぴくりとしたのをデイジーは見逃さなかった。