昼と夜のデイジー 37

あのとき、グィーガヌス刑事には聞こえていなかったろうか?
思い切りかがんでいたし、表情も見えなかったはずだ。
帰りの馬車の中でデイジーはそう逡巡した。
天井に打ち付け始めた雨はその音を強めていく。
冷え込んで湿った風で軽く揺れた車体にデイジーの身はぐらついてヤマダのほうに傾いだ。
岩のように動かないヤマダは壁と然程変わらない。
だからデイジーの考え事は止まなかった。
「ああ、ここ暫く記憶が混濁するみたいで。
大昔に僕も聞いたことあるんだけど、確かDで始まる名前だったからそれでじゃないかな」
ホテルに戻って部屋に戻った所でドルは事も無げにそう言い放ち、普通に授業をしていたけれど。
授業後、再び病院に戻っていったドルはきっと、『お祖母様』と今日の話をしている。
そのはずだ。
信じようとすればするほど、疑念は深くなっていく。
魔力波動が殆どないドル。
変な魔力波動があるあの家の周辺。
『ドル坊ちゃま』。
論文の裏取引とか刑事とかヤマダとか。
―――――ドルは何なの?
デイジーが知っているドルは、気さくで、授業やる気があるのか分からない風で登場して。
デイジーの風評も知っていながら、勉強しようという気にさせてくれて。
でも、目的としてはあの箒とモップをなんとか押さえるためだったはず。
デイジーはモップに乗ったドルを見た、あの夜を思い出していた。
もう遥昔のように感じる。
ドルはそのことを何と言っていたろうか。
…たしか、『散歩』。
グィーガヌス刑事に言ったほうがいいんだろうか。
ホテルの部屋のベッドの方にぼんやりと焦点を合わせながら、デイジーはその考えもまたぼんやりと否定した。
『祖母が喜ぶ』と言ったドル。
嬉しそうにするドル。
『はじめまして。ドル・コルウィジュと申します』と挨拶を交わしたドル。
『やっぱこれ、疲れるねぇ』とネクタイをゆるめるドル。
頭をばりばり掻くドル。
笑いをこらえるドル。
感慨深げに思い出に浸るドル。
これまでデイジーが関わってきたドルの姿だった。
それはデイジーにドルの来歴をなんら示してはいなかったけれど、ドルという人物の姿形――外見ではなく、内面的な――を浮かび上がらせていった。
揺らぐその像は、モップに乗ったドルが暗闇の中でデイジーを照らし出すようだった。
疑念は光を蝕む毒のようにじわりじわりと…。
何か忘れていやしないか。
とても大事なことを。
体調的には文句なしだから、勉強のおさらいしよう、そうだ、そうしたら考え事もなくなるはずだ。
そう思って開いた教科書は開いたその状態から一ミリも動いていない。
鉛筆はノートの端っこに謎の黒いジグザグを描いていた。
ジグザグ。
追憶の扉から突如溢れ出た記憶は今再び鮮やかに彩り、デイジーの思考の最前線へと走り出た。
ぞくりとした。
デイジーがモップに乗ったドルを見る前、メイド『デイジー』として来る前。
あのとき見た青年。
あの隣の家との隙間。
デイジーが刑事達と父親を伴って、『ジグザグ』があると指摘したあの隙間ではなかったか。
そしてあの青年はあの後見当たらなかったのではなかったか。
あの青年の、背格好は…。
あのとき、デイジー自身が見覚えがあるなと思っていたのに、今の今まで全く思い出さなかった。
―――――思い出したくなかった?
それでもなお、デイジーにはこのことをグィーガヌス刑事に伝える気にはならなかった。
ヤマダは?
メイド長は?
他…?
いなかった。
これを打ち明けていい人など、誰もいない。
『だって、つまらないでしょ。教えちゃったら』。
―――――私をからかってるの? それとも…。
ぞくりと、また悪寒がする。
先程メイド長が持って来てくれた紅茶を飲んで温まったというのに、想像するだけでこんなことになるなんて。
どうしようか。
どうしよう…。
目が回るような感覚に、立ち上がり、ベッドに倒れ込む。
記憶はそこで途切れた。

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「薬がないそうなんです」
デイジーのみみにぼんやりときこえたのは、メイドちょうのさけびのようなうろたえたこえだった。
「事前に手配とかは…」
ドルだ。
「していましたよ、していましたとも!
でも、先日来た患者の遣いに売ってしまったと…。
お嬢様のお身体に合う薬が手に入るようにと、必ずと言ったのに…」
これは、あれだ。
「病院にお見舞いなんてこんなことになるなら…」
ねつがでている。
「このあたりで、ほかに薬局は?」
ヤマダのこえだ。
じゃああれだ。
くすりをのんで、しばらくあんせいに。
でもいつもより、さむい。
ぶあついもうふをかけているのにさむくてたまらない。
あったかいこうちゃをのんだらだいぶちがうんだろうか。
「そんな!!」
メイドちょうのこえのあと、しずかになった。
これはよくない。
「だいじょうぶよ…」
メイドちょうとドルと、ヤマダにそういうと、みんながわたしをみた。
「ああ、お嬢様」
ひたいにおかれたメイドちょうのてはつめたかった。
きもちいい。
「っ…」
メイドちょうはいきをのんだ。
またしずかになった。
もしかして、すごくねつがたかいのか。
そうかメイドちょうのてがつめたいんじゃなくて。
「ちょっとだけ、まってください」
ドルはこちらをみている。
まっすぐに。
それはいままでみたことがない。
もうさいごのようだった。
「僕がなんとかします」