昼と夜のデイジー 31

本でしか見たことがないドルの小屋…もとい家の建屋を眺めながら、薄曇のなか頂く紅茶はなかなかの味。
召使『デイジー』の腕がいいからでもあるが、家にいた時以上にくつろげているのはきっと人が程良く少ないからだろう。
気持ちだけでなく本当にちょっと頭が重かったのも、空気が良いからか和らいだ。
デイジーに咎められたグィーガヌス刑事は煽るように紅茶を飲み干したあと早々にドルに声を掛け、家の中を見せてもらうという名目でごそごそしている。
─────ていうか、箒とモップは?
あんなものが見つかったら一発でアウトだろうに。
やきもきする内心。
必死で装う平静。
デイジーは気を逸らすべく、星ぶどうをいつも以上によく噛んで食べていた。
ヤマダは遠目にその二人を見遣っていたり、馬車に乗っていた時と同じようによくわからない所を凝視していたり。
「お嬢様!」
びっくりして振り返るとドルが手招きしている。
ドルが滅多にその口から出したことのない呼称、しかも大音量。
驚きのあまりすっかりマナーを忘れて自分で椅子から立ち上がろうとすると、メイドが慌てて椅子を引いてくれた。
「足元気を付けてくださいね〜」
ドルは呼びかけているけれど、視界にはドルと家の入り口しか目に入らない。
小走りに──運良く転んだりつまづいたりせず──駆け寄って、ドルの前ではついつい小声になった。
「やめてよ。
びっくりするじゃない!」
「だって皆がいるところで呼び捨てするわけにいかないし?」
そうだけど…と口籠り、今迄デイジーのことをドルが呼ぶのは二人でいる時だけだったことに改めて思い至り。
もごもごと唇を動かすデイジーを横目に、小さいテーブルを取り出した。
繁々と室内を見回す。
実はこの小屋、相当古いのではなかろうか。
床が歪んでいるところがあるし、壊れてどうしようもなさそうな箇所も見受けられる。
でも基本的な手入れはしっかりされているのだろう。
小綺麗で、露出している丸太は磨き上げられており、焦げ茶色に輝いている。
そんな色にする塗料もあると聞くが、これはデイジーの家のところどころに露出している木製部分に近いような。
他の構造は本の挿絵で見た絵と特に差がないように思えた。
何故か岩肌に面して窓がある以外は。
「なにあれ」
まっすぐに腕を伸ばして指さすと、ドルはくすりと笑いを漏らした。
「グィーガヌス刑事にも聞かれた」
「質問の回答になってないわ」
「僕もずっと変だなとは思ってるんだけど、特に生活には困らないからいいかと。
移築されたって可能性もあるし」
小屋なんて移築する物好きがいるのだろうか。
一瞬疑問に思ったものの、あのバカデカいデイジーの住むからくり屋敷を金に飽かせて移築した物好きもいたし、それを購入した父親という物好きもいるわけだからと考えを改めた。
そんな古くて──言い換えると歴史ある──、ボロい──多少痛んだ──小屋に、どーんと大きな本棚がある。
ドルが今エセ家庭教師をしていることを鑑みても驚く大きさ。
父親の書斎に一つあるやつと同じくらいだろう。
ドルが以前デイジー宅に持って来た学術書のようなものが並んでおり、その向こうにはベッドが一つ。
つぎはぎだらけでおそらく白かったはずのそれは、ドルの祖母用か。
とすると、ドルはあの重なったクッションと毛布を床に直に広げて休んでいることになる。
そんなことが可能なのかと訝しむものの、そこを確認する前にグィーガヌス刑事の『オジョウサマ』という嫌味がよぎって聞くのは止めた。
でもそれとは別に、屈み込むドルが何をしているのか気になり、しゃがみ込んだ。
「お嬢様」
中腰で屈み切る直前。
ヤマダだ。
何時の間に背後に。
ドルがお嬢様呼びしたのとは違い、呼び方には吃驚しなかったけれど。
「近いです」
「え?」
「距離が」
─────ああ、ドルとのってことか。
デイジーが一歩後ずさると、ヤマダは納得した様子で一息ついた。
─────お目付け役もかねているわけね。
何時も自宅にいるときは個室に二人きりでもそこまで気にしていないのに?
不思議に思うのが一瞬だったのは、ドルが立ち上がったから。
持っているのと足元に置いてあるのは絵の道具に見える。
スケッチブックと筆とパレット、あと画板。
全て新品。
「それどうしたの?」
「休みにきてるんだし、散歩も口実があった方がはかどるだろうってことで。
メイド長にお願いして先に買わせてもらったんだ。
美術の授業なんてしたことないでしょ?」
確かに、手芸と刺繍の授業はあったが美術はなかった。
服が汚れるので上流階級の女子には非推奨だったのだ。
ドルの考えとしては、午後は絵を書く時間にする気らしい。
こういう時だからこそ許されるということだろう。
ただし、今日は無理そうだけれど。
「なんか雲行きが怪しいわよ」
デイジーは開け放たれたドアから外を見遣った。
「うん、そうだね。
もう帰ったほうがいいかも」
お茶に丁度良かった空は次第に分厚い雲に覆われだしている。
小屋で雨宿りしたら夕方になってしまう。
その選択肢はなかった。
急ピッチで外に出したものを全部屋内に。
そうこうしているうちに、ぱらぱらし出したようだ。
雲の具合からして本降りまではまだだいぶありそうだが、馬車まで間に合うだろうか。
ポツポツッと立て続けに雨粒がデイジーの顔に当たる。
「急ぎましょう。
林の中なら雨が多少は凌げるでしょう」
メイド長がベールを羽織らせてくれた。
直ぐに小走り。
ドル、メイド長とメイド、デイジーとヤマダ、グィーガヌス刑事。
ヤマダが何度かグィーガヌス刑事のほうを振り返ったのは、まあ今日のグィーガヌス刑事の不穏な振舞からして当然と言えた。
馬車につく頃、雨粒は霧雨になっていた。
「土砂降りにならなかったのは良かったけど…」
そう言葉を濁して馬車に乗り込んだメイド長は、馬車から大判のストールを持ち出し、デイジーに羽織らせた。
ドルはチラリとデイジーを横目で見て目を逸らす。
ヤマダはといえば頻りに林の方を気にしている。
「どうかしたの?」
忘れ物も何も持ち物一つ無かったのに。
「いえ」
いつもの一言をしながら、ヤマダは最後の一人として馬車にゆっくり乗り込んだ。
やはりヤマダは猫か何かなのだろうか。
見えない何かが見えているのか。
デイジー的にはもはや見えない何かがいるかどうかよりも、ヤマダがそうしている動機が分かる方が安心できる気がしてきた。
馬車の戸が閉まる。
ドルはあの後ろの荷馬車に乗りこむのだろう。
雨に打たれてはいないだろうか。
あの荷物の覆いの下に入れば雨は防げるのかもしれないが、それが許されるのだろうか。
─────私は守られている。
これまでも、昨日も、今日も、これからも。
走り出す馬車。
林を睨み続けるヤマダの横顔と、私に微笑むメイド長の笑顔が辛い。
それを出さないように微笑み、瞼を閉じる。
湿気がストールの中に充満して蒸し蒸しするが、これを脱いだら風邪を引いてしまう。
ぼんやりと考えながら徐々に現実とデイジーの頭の中にある暗闇がつながっていった。