昼と夜のデイジー 32

それは小さかったあの頃、窓の外でモップに載っている少年の思い出。
あの日デイジーの暗闇に差し込んだ光は月明かりではなかった。
少年の燃えるような真っ赤な髪は、暗がりを一瞬だけ駆け抜けるように拭い去った。
『待って』
思っているのにデイジーの喉は声を発してくれない。
辺りは真っ暗になり、窓からの月明かりさえも消え去り。
失意の中とぼとぼとベッドに横たわろうとするその枕元に、赤い髪の青年が現れた。
─────彼だ。
立ち上がるデイジー。
カーテンを開ける。
照らされたのは見慣れたドルの顔だった。
俯き、少し悲しげにすら見えるそれは、時折デイジーに教える時にドルがする顔だった。
『……!』
何かをデイジーは言おうとした。

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「…お嬢様、着きましたよ」
寝起きの頭で目を見開いたデイジーが見たのは、向かいに座るいかめしいヤマダの顔。
そっとデイジーの肩をゆらすメイド長によって、デイジーは自分の暗闇から呼び戻された。
「思っていたよりも早いのですが…お加減どうですか?」
着替えを済ませたデイジーの体を気遣うメイド長に、デイジーは多少悩むような顔で答えた。
「大丈夫。
せっかくですし、勉強に時間を当てたいの。
ドルを呼んで貰える?」
二人の時間が多いほうがいい。
どこに箒とモップがあるのかも聞いておきたいし、どこにあるかわからない以上、いつも気を張っている必要があるだろう。
そういう理屈なんだ、だからドルと二人で話す必要があるんだと言い聞かせて待っていたデイジーは、普段デイジーの家でするのと何ら変わらないしぐさでホテルのドアを開けたドルを見てほっとした。
普段と違うところを挙げるなら、部屋の天井とドアが高めのため、開けたドアの向こうにヤマダの頭が見えるところか。
デイジーの家は古い造りで、豪奢なくせに個人の部屋の天井は低め、特に家の主人や家族が住むエリアがこじんまりしている。
おかげでちょっと水を置いたり湯を沸かしたりすればすぐに加湿できるが、この部屋のように天井が高いとなかなかそうもいかず、実はいつもよりも喉が乾燥するのを感じていた。
「オベンキョウの時間が増えちゃうけどいいの?」
後ろででドアを閉めながらのドルは開口一番これ。
「目的に合ってるでしょ?」
口をすぼめながらデイジーはつぶやいた。
なんとなくドルのほうを見ながら言うのは何なので、机に向かってノートとペンを取り出した。
「そう」
軽快な相槌とともに、ドルはデイジーの頭をぐりぐりとなで回す。
「…なによ」
睨みつけられているのにドルはにこにこしている。
「いや、かわいいなぁ、と」
さらりとドルの口から出たのがそんな言葉で、ますます腰が落ち着かず。
「お茶してるときに端っこからちみちみドライフルーツかじるとことか、今みたいによしよしするとなんかツンデレな感じとか、小動物みたいだもん。
案外デイジー、草食系だよね」
「家庭教師でしょ!!」
こっちの気も知らずになんだとばかりに、デイジーはノートと教科書を机にたたきつけた。
ちみちみかじっているのはそうしないと胃が消化出来ず、後で気持ち悪くなったりするからだ。
もう一個のは…とにかく、だ。
「うん、そうだね」
そ知らぬ顔で差し出したのは例の数学の教科書。
分数のあたり。
「え゛…?」
「デイジーの期待に応えて、一番気になってたとこから!」
今日はもうちょっと国語の延長的にやれそうな、歴史とかそういうのかと思っていたのに。
「上目遣いもなかなかいいけどダメ」
懐柔の入り口はぴしゃりと閉じられた。
そのままゴリゴリとした調子で授業は進む。
デイジーはドルから『問題』という文字を頬にそのままこすり付けられているような錯覚におちいった。
デイジーの精力はその文字に削りとられ…。
ドルがドアを閉めて帰るのを見送った後、デイジーは無意識に机もどり、とうとうそこに突っ伏した。
―――――脳みそが干乾びそう。
いつもよりも時間を減らす予定だと言っていたけれど、この休暇中に多少は進捗したい。
今までやっていなかったことに挑戦しているのだから仕方ない、と言い聞かせているものの脱力した。
ドル的にはそんなにでもないのか、平静そうだったのだけれど。
部屋を出て夕食をとる間も、デイジーは心ここにあらずだった。
なんとかできるようになりたい。
そしてドルの予想通りという顔を、いい方向に崩してやりたい。
すごいじゃん、とかなんとか嘯いているのだが、実は全くそうは思っていないだろうことはお見通しだ。
そして今更ながら一番肝心な箒とモップの件が完全にすっとんでいたことに気づくと、デイジーは嘆息した。
―――――色々NGだわ。
「お嬢様!」
メイドが駆け寄った。
手元を見ると、傾けたスプーンからこぼれたスープが膝にかけたナプキンにかかっている。
服に染み込む前にささっとナプキンを取り換えられる。
ほっとした様子のメイドは、ナプキンをホテルの給仕に預けてまた元の位置に戻っていく。
特になんてことはなさそう。
つまり悩んでいるのはデイジーだけ。
他は通常営業で皆仕事中なのだから当たり前…のはずだったのだが。
見回すと一人、珍しくいつもと違う表情の者がいる。
ヤマダはそこに直立し、デイジーのほうを見てはいるものの、デイジーが視界に入っていないように見えた。
ここに来るとき馬車の中でそうしていたように、誰もいない空間を見ているわけではない。
考え事をしていて何も見えていないというのが正しいような。
ボディーガードとしてはNGの行動だし、もし父親がいるところであんな行動をとっていたら確実にクビだ。
デイジーはそれを咎めようとは思わなかった。
『ボディーガードですから』が口癖の岩男ヤマダが上の空になるなんてよっぽどだ。
食事を終えて部屋に戻る道すがら、メイド達がいなくなったところでデイジーはとうとう好奇心をこらえきれなくなった。
「何があったの?」
「は、」
「考え事でいっぱいのようだから」
「は、し、失礼しました」
デイジーの部屋のドアの前で深々と頭を下げる。
見上げて視界に入った顔についている二つの目は完全に泳いでいる。
実は顔が蝋でできているのではないかと思うぐらい不動だったヤマダが人間に見えた。
見間違いではないかと何度も瞬きしてヤマダの顔を凝視するが、間違いなくヤマダだ。
「ヤマダ、おっしゃって頂戴」
「は…ぁ、いや、そんな、その…お嬢様がお気になさるようなことでは…」
ここまで挙動不審になっておきながら、口を割らないつもりか。
ドルを第一容疑者にしているグィーガヌス刑事はヤマダに対してはさほどの注意を向けておらず、今この場にはヤマダとデイジーだけだ。
それでも渋るヤマダ。
―――――しょうがない、最終手段に出るか。
「お父様には黙っておいてあげるから」
ヤマダが硬直する。
デイジーがやっていること、即ち脅しだ。
ヤマダはデイジーの顔をみて、じっと足元を見て、そして言った。
「あのあたり…なにか妙です」