昼と夜のデイジー 27

「ほい」
やってきたドルは3日前の言葉通り数学の教科書を積んだ。
あのあと丸一日を休み休み過し体調は回復。
というわけで、満を持してのお勉強である。
「どの辺までやってるかわかんなかったからさ。
先ずはパラパラ見て、最後に見た覚えがあるあたりを教えてほしいんだけど」
不躾にも聞こえる言葉だが物言いがやさしいのは、デイジーが気にしているのを気遣ってだろうか。
初級・中級・高等がそれぞれ複数巻ずつ。
だいぶ古びている。
ドルが本職の家庭教師ではない証拠かもしれない。
もともとここには箒目的で入り込んだと公言していたわけだから。
昨日までの調査とともにそんなこんながちらついた。
が、ちらついただけだ。
今はドルが不審者であるかもという可能性より、この教科書の内容の方がずっと怖かった。
恐る恐る初級の上を開く。
前半頁はわかる。
が、後半は見覚えがあるような、ないような。
─────あーそうだ。この分数のあたりで家庭教師とそりが合わなくなって…。
デイジーは苦い思い出の一ページとともに教科書のページをドルに見せた。
「このへんから…」
表情を見られるのが怖くて教科書で顔の下半分を隠す。
上目使いで見たドルはといえば、開かれた教科書のページを御対面して一瞬ニヤリと口元を歪め、教科書から目を伏せるように足元を見た。
「あー…、まあ納得。うん。納得」
そんな微妙な顔して納得されるのは、デイジーとしては不安やら腹立たしいやら、だ。
レベル的には他と比べてどうなのかなんて聞くだけ野暮だと分かっている。
初級と書いてあるではないか。初級と。
「そんな卑下しなくてもいいよ。
意外と分数の計算らへんで嫌いになって勉強しなくなる子多いからさ。
僕の知り合いも似たようなとこから投げてたし」
もうさっきまでの妙な笑みは姿を消し、目を伏せるように机上に開かれた教科書を眺めている。
そして口を開いて、
「なんか懐かしいわ」
教科書の奥に焦点を合わせるようなドルを、じっと見つめていると、ドルはじかれたように顔を上げた。
「いや、大丈夫。なんでもないから」
嘘だと思った。
でも、なんとなく追求してはいけない気がした。
デイジーにしても、外の隠し部屋くさい仕掛けのことは黙っているわけだし、取り調べの中身も黙っているわけだからお互い様。
授業もあることだしと自分に言い聞かせる。
さらにその他の教科の教科書も一通りどこまで記憶にあるか確認。
このあとの授業の進め方の説明までして、その日は終わり。
というか、その時点で漸く戻ったデイジーの体力が尽き、お開きにせざるをえなくなってしまった。
「…ごめん」
水を飲みながら溜息交じりになるデイジーは、一昨日・昨日と寝込んだときの暗さを引きずった。
対するドルは穏やかだ。
「体力とか能力とか生まれ育ちとか、色々持って生まれたものがあるからね。
デイジーのそれって、中でもとりわけどうしようもない類のやつだと思うし」
大量の教科書のうち、次回以降不要なものをカバンに手際よく仕舞うドルの声色はすがすがしかった。
「んしょっ…その範囲でできることはあるんじゃない?
無理してまでどうのってことはないよ」
─────ほんとうに?
思いながら押し黙っていると、ドルは積み上げた教科書を横目に笑った。
「それの大半は休暇先でちょっとずつやる感じになるから。
今週末から予定通りってメイド長と話もついたことだし」
鞄に蓋をし、ドア前からデイジーを真っ直ぐ見返すドル。
「まあそう焦らず。
ね?」
「…ん…」
煮え切らない返事をしたデイジーに、ドルは踵を返した。
一歩、二歩と近づいてデイジーの前に立つ。
するりと手を伸ばす仕草がスローモーションに見えた。
デイジーの頭をクシャクシャと撫で回す。
男の人の手だった。
大人の。
ますます悲しくなるのを抑え、ドルがそうしている気持ちを汲んで笑顔を作る。
ドルはデイジーを見て泣きそうなような、笑いそうなような顔になった。
じゃぁ、と小さく一声掛けて部屋からドルが居なくなる。
開くドアの向こうに先日と同様ヤマダの体だけが見え、そして消え。
少し経つと、メイドがやってきた。
「お加減如何ですか?」
うやうやしく水などを補給し、間食なども多少。
ドルが階下に行ったところでメイド長にデイジーの体調について言い置きしていったようだ。
休めば大丈夫とデイジーが声を発すると、その具合から言葉通りだと認識したメイドはうやうやしく部屋を出て行った。
壁と一体化したようなボディーガードの体が一瞬ドアから覗き、遮られ。
部屋に一人といういつもの状況になったところで、水を飲みながら休憩を取りながらぼんやりと思いを巡らせる。
ゆるゆると二日前のあの外壁調査の後と感情がリンクしていく。
沼に落ちるようにどろりとしたものに纏われる感覚。
と同時にその沼に似つかわしくないとばかりに、気泡のようにぶくぶくと浮き上がってきた全く別質のものがあった。
驚くには値しないこと。
デイジーの身内や関係者への取り調べ、そしてドルが容疑者になっている可能性。
ドル本人の身に覚えがあるなら、何かしらデイジーに探りを入れにきたっていい。
この状況下で休暇を予定通り取れることになったのは、この家に務める全員の信頼を得ているからなわけだから、ドルとしては私や召使達から情報収集する事自体に大きな不安はないはずだ。
─────大丈夫、よね?
父親はデイジーの状況にはさして関心がない──あの調査の日にデイジーの体調を気遣ったのは異例中の異例で、今も腑に落ちない──のだが、雇っている人間に対してはシビアだ。
怪しいと思ったら何時も個人的に使っている探偵にでも依頼して身辺調査が成される。
今回の件に関しても既に全員分出そろっていると思っていい。
本当に怪しいと踏んでいたら今頃ドルは警察に突き出されていることだろう。
だから今日ドルが普通にやってきたということは、ドルについては何も出ていないということ。
その上でそんな振舞もないのなら、大丈夫なんじゃなかろうか。
ヤマダが以前口にしていた魔力波動云々は、ただの附帯情報と思っておくのがドルの安全のためには良さそうだ。
デイジーはメイドに持って来てもらったドライフルーツのマンゴーを一口だけかじった。
齧りかけのマンゴーの歯型を眺める。
でこぼこと盛り上がり、そこについたデイジーの唾は窓からの明かりを反射して艶やかに光っている。
ドルがかじったら多分違う歯型になるだろう。
歯並びは人によって違うから。
知識はどうだろう。
やっぱり人によって違う。
今迄疑問に思ったことは、召使全般に思い立った時に聞いていた。
でも魔力波動云々の事はおいそれと聞けない。
うっかり話が広がったり召使側から掘り下げられたりしたら、ドルの雇用が危なくなりかねないのだから。
父親の元にあるであろう身辺調査の内容に、この事実は記載があるのだろうか。
ヤマダは何か父親に聞かれて喋っているだろうか。
休暇は週末。
デイジーの体調が先日の調査からこんな感じ。
だからドルの休暇中に併せて療養のためにそっちの地方に行くということについて、後付けで筋が通ってしまった。
それに加えて、もしかすると、デイジーが疑われている可能性もあるのなら、
─────刑事さんたち旅行に付いてくるんじゃない?
夕食の食卓で、メイド長に確認しよう。
面倒だ、と自分で築き上げた気持ちの沼にまみれつつも、その沼から湧き出る気泡がはじける様に何故か心踊る。
部屋に引きこもっていては起らない出来事。
ドルが来る前後から、それがたて続いている。
いつまで続くんだろうと思うのと同時に、内心いつまでも続いてほしいと願っている自分に不思議になった。
デイジーはまた冷たい水を一口分だけ喉に流し込むと、気持ちの沼の泥はわずかずつ洗い流されていった。