昼と夜のデイジー 25

「話は聞いた」
デイジーは息が詰まりそうだった。
調査の日の朝となった今、父親は朝食の席で物凄く久しぶりに私と同席している。
そして今さっきまでは、常通り素早く、しかし常になく静かに食事をとっていた。
いつもなら食事しながら新聞を読みながら秘書に指示を出す。
色白で口元から絵に書いた様に左右に跳ね上がった黒い口髭に食べ物を付けずに高速で食事を終える父親を、ちょっとした技術者だと思って無関心に眺めているところなのだが。
穏やかな様子の父親に対して湧き上がる違和感──いや、声もしないので異物感──。
その状態が続いてからの、この一言だ。
ビタリと父親の両手のナイフとフォークの動きは止まっている。
今日のデイジーはいつも以上に食欲がある。
なのに口の中に放り込んだクロワッサンの小さな破片を未だに飲み込めずにいた。
その事実に気付いたデイジーは、父親の言に答えるよりもまず、ほぼ咀嚼仕切っている口の中のものを水で流し込むことにした。
厳めしく背筋を伸ばした父親の、ホームポジションのごとく左右対称になった腕。
微動だにしなかったその腕は、ゆっくりと動き出し、その手に持ったナイフとフォークを音もなくそっと皿に、これまた左右対称に置いた。
行儀の悪さを指摘されるかと思いもそもそと居住まいを正す。
怖いのではない。
ひたすら居心地が悪いのだ。
正した居住まいがどんどんまた崩れていきそうになる。
「警察の捜査協力ということだったな」
父親がデイジーの方を見ているが、デイジーには父親が何を云わんとしているのか分からない。
「はい。そうです」
返事だけしてみる。
「…立ち会いはする」
父親は深く深く深呼吸し、溜息を付き、
「面倒はなるだけ早く済ませたい。
仕事の予定が入れられない」
そう一言すると、左右対称にナイフとフォークを手にとり、そそくさと残りのスクランブルエッグをなくすと立ち上がって部屋から消えた。
秘書がその後に続いて居なくなると、部屋は毎日デイジーが日課として見ている風景に戻った。
─────そういうことか。
今日バタついていないのは、警察が家に立ち入った際、自身の仕事内容に目をつけられて面倒なことにならないようにするためだったらしい。
久しぶりの娘との対面で面倒一色なのは予想通りだったものの、静かな朝食すら面倒だとばかりに立ち去るのは流石この父だと悪い意味で見直した。
母のあの素行はうんざりだが、いつもこの調子の父だから分からないでもなかった。
二人の関係を思うと、喉の奥につかえていたデイジーの緊張は多少ほぐれ、食は先程までよりはスムーズに進んだ。
いらっしゃったらお呼びしますとのメイド長の言葉の後、部屋に戻るまでの間父親とはニアミスもない。
あのあと即座に書斎に籠もったのだろう。
そして人が居なくても出来る書類仕事の類を片づけているか、警察に見られては困るようなものを片づけているか。
父親の仕事にグレーゾーンが付き物なのは分かっている。
本を読まなくても、勉強をしなくても、学校に行かなくても、分かることができた。
そんなことを分かることができてしまったのが今は──これまでも時々思っていたことではあるけれど──残念でならない。
今日はドルは時間をずらしてくる予定。
父親との顔合わせを想像する。
─────まあ、あの通りよね。
ドルに一瞥をくれ、よろしく頼むよとつぶやいて立ち去る父親と、頭を垂れるドル、それで終わり。
さっきヤマダにやっていたのをもう一回リピートするだけだ。
それは容易く想像できる上に、ヤマダとドルの初対面と違って面白くもなかった。

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ほどなくしてグィーガヌス刑事と全く愉快には見えない仲間二人が訪れると、朝食の時に感じた緊張というにもおかしな気持ちが再来した。
「では旦那様、そしてお嬢様。
本日はよろしくお願い致します」
慇懃に、しかし先日デイジーと対峙したときと変わらないグィーガヌス刑事のにぃっと不気味に歪んだ笑みは、静かにすぅっと消え去り、残りの石膏像のような顔色はこわばったように動かなくなる。
二人の刑事と思われる人間も顔がこわばっているのは一緒だ。
何かの呪いでもかけられて表情が出せなくなっているような彼ら。
日傘片手に父親と大柄なボディーガードを連れて続くデイジー。
通行人は何事かという顔でジロジロと無遠慮に眺めてくる。
疲れを感じつつ、こちらもとばかりに繁々と自宅の外観を眺めた。
─────私の家ってこんなだったのね。
滅多に外に出ない。
だから中のからくりを知っているという事以外、実の所この刑事達と自分の家の外観に対する認識にさほど差はないかもしれなかった。
いや、寧ろ調査対象にしている刑事達のほうがよく見ているかも。
─────じゃ、私いらないんじゃない?
急速にデイジーは家の外に駆り出されていることへの、元々さしてあったわけではない義務感が薄れてきていた。
「ここ…は?」
外壁のある一箇所を指差す刑事のうち一人に近寄ると、刑事達はデイジーを最前列に通し、デイジーの背後からじとりとデイジーの手先を凝視。
ものすごく重い期待と、相反するデイジーのしらけた気持ち。
デイジーの人差し指は、デイジーの視線とともにそっとそのヒビの入った部分を縦になぞっていった。
デイジーが屈み込むと同じように、刑事達はかがみ込んでいるようで、その息遣いが感じられる事もまた重い。
振り払うようにすっくと背筋を伸ばす。
立ち上がる瞬間、空気がデイジーの体にのしかかっているように感じた。
「いえ。ただの亀裂です」
「なぜわかるのですかお嬢様」
グィーガヌス刑事の
「なぜ…そうですね…亀裂の入り方が多少違うような感じがするのです。
規則性というわけでも…大変説明しにくいのですが…」
実はちょっと嘘だった。
規則性はある。
こういう感じの亀裂や隙間がほんの少しだけあるとき、とりわけぴったりとくっついているように見える部分に限り、その亀裂が微妙に稲妻のようにジグザグになっている。
そのジグザグは、デイジーが知っているものだけで十数パターン。
さらにダミーのジグザグもあったりした。
最初に見つけたのはほんの偶然。
小さかったころ、食事後に椅子からおりようとしてバランスを崩し、普段行かない部屋の片隅に着地した瞬間、足元がへこんだことによってだった。
その一つだけは父親も知っている。
踏むと窓辺のその一角だけ四角く体重に応じて沈み込む様になっていたのだ。
窓から侵入した何者かが足を置きやすい所にあったらしく、足払いのような役割だったと思われた。
召使達にとって危険と判断した父親の指示により、その日のうちに板を打ち付けられてしまったが。
その後壁に手を置きながら御手洗から戻る途中で二つ目。
ヒビの模様を覚えたのはその時だ。
誰もいない時、熱を出して朦朧とした状態で廊下を歩いていたあの夜。
まさかなんの脈絡もなく壁の一部がどんでん返しになっているなんて思わない。
くるりと反転したその裏側に、デイジーは閉じ込められた。
壁を叩いたりおおきな声を上げたりする体力は残っていなかった。
でも不安という不安は無かったような気がする。
なにも見えない埃っぽく静かな暗闇は、いつもデイジーを通りすぎる人で溢れている家の中と違って穏やかになれた。
わけも分からず、というのが正しかったのかもしれない。
もうずっとここにいたいなぁと思いながら、その暗闇から僅かに漏れ出す光をたどって入った時と同じことをした。
縦線は数カ所、わずかに稲妻のように光を差し込んだ。
その後、気付いた時には部屋のベッドで寝ていたが、メイドは廊下で倒れていたと証言していたそうだ。
ちなみにそのメイドはデイジーの熱が上がっていることに気づかずに召使との逢引中だったため、二人揃ってクビになったそうだ。
なぜ知っているかといえば、気になって後日私が聞いて回ったから。
母親は何も言わなかった。
もちろん召使たちも。
口を開いたのは今デイジーの後ろにいる人物だ。
『メイド長にそう報告された』
感慨もなくデイジーにそう“報告”して立ち去った父親の背中を見送ってから、デイジーは思っている。
─────私は一人。この家でずっと一人。
そしてグィーガヌス刑事達に声をかけられ、『違います』を繰り返しながら、デイジーは思っていた。
─────あの暗闇は私だけのもの。
思いをさえぎるように、さっきと同じ刑事の声。
「これは?」
目にした瞬間、デイジーはグィーガヌス刑事に答えたくない気持ちで一杯になった。