昼と夜のデイジー 24

「ほんと!?」
デイジーの声の大きさに驚いたのか、ドルの目が丸くなっている。
「うん。古文だけはね。
元々多少本は読んでただろうってのと、案外デイジー記憶力いいし…」
部屋がワントーン明るくなったような気になる。
でも代わりになる次の言葉が浮かばない。
「どうする? 今度から他のもやってみる?」
「ついていけるのかな…」
「まずはついていけそうなとこからだよ」
不安がちらつく。
ワントーン明るくなった部屋がまたワントーン暗くなったような。
あの家の外を通りすぎる女子学生の笑い声は今、デイジーの中でそんなデイジーを笑っている。
『今更?』『本気?』
でも。
「…やってみる」
その言葉に、ドルは猫のように上に腕を伸ばしてうーんと唸りながら背伸びをした。
「やっとここまできたかぁ〜!」
─────え?
「…どういうこと?」
腑に落ちない顔になっているであろうデイジー。
したり顔のドル。
「どうせ机に向かったこと無かったろうし、直ぐに全部やろうとしたって挫折するに決まってるでしょ。
それに読解力ないと他の教科書の類読んでも理解できないだろうから、論文読解プラス古文って体でここまで国語っぽいことしかしなかったんだよ」
雷に打たれた気持ちだった。
呆然とドルを見つめると、
「これでも一応仕事してんだるよ〜」
─────そうだった。ドルは大人だ。
与太話してる時は忘れそうになるけれど、デイジーは単に生徒。
そうじゃないような振舞に見えたのも、大人が子供をからかうようなのと同じ感じなのだろう。
分かっていたものの意識しないできた事実。
それを直視せざるを得なくなったことで一瞬臍を曲げたい気分になったものの、決意はさほど鈍らなかった。
「…いい。やる。私も、勉強する」
自分に言いきかせるようにそう口にしてみたデイジーを、ドルは不思議な面持ちで眺めている。
「りょーかい。
でも今日のところはこれ一個で勘弁して。
明日からは別の、持って来るから。
準備しないとできないしね」
ドルはまた続きのページを開き、その日はその章を読み終えたところで終わりとなった。
帰りゆくドルの後ろ姿をいつものように部屋のドアから見送る。
いつもと違う圧迫感は隣にヤマダがいるからだろう。
ドルの姿が階下に消えたあと、見上げた山田は、怪訝な表情だった。
デイジーにみられていることに気づきながら目線すら合わせない。
しかしその矢張り岩のような顔で、無人の階段を見つめながらぼつりと呟いた。
「あの方は何者ですか?」
「え? か、家庭教師だけど…」
ヤマダの眉間に皺が寄り、益々岩っぽくなっていく。
「何か?」
「…いえ…その…」
「いいから、おっしゃってください」
ここで止められたら気になってしょうがない。
ヤマダは、ゴゴゴゴ…と効果音すらしそうなほど重々しく口を開いた。
「ないんです」
「何が?」
「魔力波動が…殆どないんです」
「え? それはそうよね? 魔法使いじゃないし…」
ヤマダの渋い顔からは何を云わんとしているのか分からない。
少し待っていると、続きを語り出した。
「私は魔力波動の有無を感じる事が出来ます」
「え? そうなの!?」
ゆっくりと頷くヤマダ。
そういう人がいるのは聞いたことがあるけれど、実際に会ったのは初めてだ。
そもそも召使い以外の人と会うことが稀なデイジーにとって、特殊能力がある人物と出会うというのは此の先も含めて貴重な体験になるだろうこと、間違い無かった。
「親族には魔法使いもいますが、もちろん私は魔法は使えません。
でも…わかるんです。
その立場からするとあれは…」
そんなに変な事なんだろうか。
「魔法使いでもないんだから、別にどうってことないんじゃなくって?」
ヤマダはかぶりを振っている。
「魔力波動は、魔法を使えるかどうかによらず多かれ少なかれ誰しも持っているものなのです。
生気というと語弊がありますが…。
あそこまでゼロに近いのは普通有り得ない」
デイジーとしては、ヤマダが感じている恐怖のような何かより、新たな知識を手に入れたことが先に立つ。
その上で、だ。
不勉強をなじる気はなさそうなヤマダだが、さっきまでドルとしていた話の流れ上、デイジーは自分がいかに『知らない』か突きつけられているように感じた。
そんなデイジーの複雑な心境をを知ってか知らずか、ヤマダは続けた。
「死期が近いなら兎も角、そうは見受けられない様子で…しかし…」
どんどんヤマダの眉間の渓谷が深くなっている。
そろそろリアルにヒビが入るのではないだろうか。
「わかったわ。ありがとう。
ドル本人になにも聞かないでくれたのは、この状況を鑑みてのこと?」
無言でヤマダは頷いた。
だって、もし仮にドルが怪しい人物なのであれば、それを突きつけられたら逃げる。
そして、
「私に渋ったのもそういうことですわね」
「…申し訳ございませんお嬢様」
デイジーは、品が無いと分かっていながらわざと大げさにヤマダに向かって溜息をついた。
デイジーも黒、と考えると、デイジーからドルに話が伝わって隠される事もありえ、デイジーから父親への告げ口でヤマダの解雇も有り得るわけで。
結局のところ、デイジーがさほど信頼されていないということに他ならなかった。
「話してくれたわけだから。
誰にも言わないわ。大丈夫」
─────多分そのほうがいい。今は。
「あと、その…お嬢様は…大丈夫だと思います」
「何が?」
「お話させていただいて、お嬢様はちゃんと理解していらっしゃいます。
だから、勉強とかは、そんなに、心配しなくても」
「聞き耳立てるのはNGですわよ」
デイジー自身びっくりするくらい声が低くなる。
「申し訳ありませんお嬢様」
─────無口なくせにこんなところは律儀に返事するのね。
若干面倒臭さを感じながらも、まあ悪気はないんじゃなかろうか。
さっきまで山だ岩だと思っていた大男が多少しゅんとする様子を見て溜飲を下げると、いいわよとだけ一言して部屋のドアを閉めた。
そして考える。
─────でもドル、モップに自分で乗ってたわよね。
魔道具だ。
魔力波動がほぼない人間が、魔法使いが使う道具を使えるものだろうか?
あんなふうに仁王立ちしてバランスをとって、乗りこなせるだろうか?
勉強不足で一般常識も分かっていないところがあるのを自覚しているだけに、不安と綯い交ぜの不信感がじりじりと吹き出した。
でも、今さっきドルと読み終えた章に書いてあったではないか。
クチダケオトコは箒には乗れなかった。
その理由は、『あなたの魔力が私よりずっと少ないからです』。
─────どういうこと?
デイジーは釈然としない思いでさっきまでドルが座っていた椅子を眺める。
当然、空席だった。