眼帯魔法使いと塔の姫君 20

その日。ミリーノは、昼食を済ませ、本を読んでいた。魔法に関して事細かに書かれている『魔術大全』。丁度、『魔力許容量越え』の項だった。
…魔力許容量越え…
魔法使いが、自身の魔力量の限界を越える力を要する魔法を用いること。これを行った魔法使いのうち八割は死亡する。生存した場合でも、例外なく魔力許容量が低下する。過去の事例によると、死亡したものの大半は炎龍の呼び出しを図った者であり、炎龍の呼び出しの困難さがうかがえる…
本の虫ミリーノには既知の事実だった。しかし、他にやることもなかった。というより、動きたくなかった。
あれから一週間。ラムダとは、『飯だ』『風呂だ』以外の会話がほぼ途絶えたままだ。
ラムダはどう思っているのだろう。ミリーノの変貌に、驚いているのだろうか。普段から表情に乏しいあの人物から、それを読み取るのは不可能に近かったし、現時点でミリーノ自身、それを読み取りたいとは思っていなかった。
真実には、もう近寄りたくなかった。
─────もう、嫌。
ドスドスドス
けたたましい足音が、ドアの向こうで響いた。ラムダの足音とは、明らかに異なっているそれは、複数あるようだ。
「姫様~~!!」
「ミリーノさまー!」
聞き覚えのあるメイドたちの声がした。そして、ドアが開いた。
「姫様!」
メイドたちはミリーノを見るなり、ベールを用意しだした。ミリーノはそのメイドたちの名前すら覚えていなかった。
メイドが駆け寄ってくる向こうに、ラムダの後姿が見えた。だが、それも一瞬のこと。ミリーノには薄いベールが被せられた。前は全く見えなくなる。
「では、行きましょう」
二人のメイドは、ミリーノの手を引っ張ってゆっくりと歩き出した。人の声が段々大きくなっていく。その中で、二つの声が、ミリーノの耳に鮮明な筋を残した。
「わいの計画とちゃうことしよったお前に、付き合いきれんようになったんや。限界やったんや! 荷担するより、お前突き出したほうが金になったんや。分かるやろ。孤児院建て直すには、それなりの資金ってもんがいる。お前の首にかかった賞金で、一発や。お前、わいを恨むか? 恨みゃええわ。わいはわいの目的を達成するためにやった。なんも後悔しとらんわ。なんも…なんも…」
「私は後悔しない。お前を恨みもしない。…お前は昔から変わってないな。後悔しているのがバレバレだ。私と違って、お前に嘘は向かない」
聞き取れたのはそこまでだった。ミリーノは薄れ行くラムダとアルファの声から耳を遠ざけ、前に進む。
すっと風が吹いた。玄関を出たのだろう。ミリーノはベールの中で上を見上げた。無論、そこには何も見えない。下を見る。ただ、かすかに足元から漏れる光が、自分の踏みつけている雑草だけを照らす。
土を踏む感触。ミリーノは、自分が馬車に乗せられたのを感じる。無言のメイドたち。無言の自分。その中で、あの時聞いてしまったラムダの真意だけが、海に切り立つ氷山のように凛然とそびえていた。
ラムダは、ミリーノを犯そうとしていた。自分の知的好奇心を満たすために、ミリーノを犠牲にしようとした。
アルファは、ラムダを手伝っていた。しかし、孤児院再興のため、ラムダを裏切った。
ミリーノは、ラムダに誘拐された。
そして今。再び塔に戻る。
─────怖い。
なぜだろう。この一週間、塔に帰りたいと思っていた。
今、ミリーノは生まれて初めて馬車に乗っている。それなのに、ミリーノにはさして感動がなかった。むしろ、ここで初めて目覚めた時のほうが、新鮮だったように思う。
馬車を降りる。
ぎぎぎぎ…
聞きなれた音だ。
生まれてから、もう十七年、ずっと聞き続けてきた。塔の扉の開く音。
ベールが取れる。ステンドグラスの光が、ミリーノに当たる。それはもう月明かりに変わっていた。
「夕食でございます」
メイドがいつものように恭しく食事を持ち込む。ミリーノは平らげ、そしてメイドはいなくなった。
今までミリーノが使っていたものとは違うが、ベッドも既に運び込まれていた。
─────塔に、戻ったのか…
ミリーノはベッドに上ってぺたりと座り込んだ。
あまりにあっけない帰還。
ステンドグラスに描かれた神とやらだけが、ミリーノと対峙していた。