眼帯魔法使いと塔の姫君 8

 それから二週間。読書ペースを上げたミリーノに、もはや読むべき本は無かった。
─────暇。暇ひまヒマ…
 状況は初日に逆戻りだった。あの日以来、あの魔法使いの顔をまともに拝んでいなかった。
─────だって、なんだか調子狂っちゃう。
 元々あまり正常な神経とは言えないミリーノだが、あの魔法使いは別格だ。顔を見ると背けたくなるが、後ろを振り返った時に姿がないと、なんだか胸が締め付けられるような感覚が、ミリーノを襲った。
 そんな時ミリーノが思い出すのは、あの冷たい手と、夜空と、そのときの微笑。そうして、またため息をつくのだ。
─────何か魔法でもかけたのかしら。
 魔法をかけたとしたら、ミリーノを誘拐した理由は、『精神的苦痛説』で、ほぼ確定したようなものだった。ミリーノの症状は、日に日に”悪化”していた。
 ただ、気がかりなことがある。今日の朝と昼の魔法使いは、様子が少し妙だった。声がいつもよりも細くなっていた。顔はここ数日まともに拝んでいないが、何かあったのだろうか。ミリーノの聞き間違いかもしれない。
 手元にあった本を放り出し、ベッドに横になる。
 そのとき、ミリーノの視界にドアが映った。
─────また、何の用かしら?
 夕食の時間には、まだずいぶん早いはずだ。そう思って、じっとドアを注視するが、待てども待てども魔法使いは姿を現さなかった。
─────おかしい。
 ミリーノはドアに近づいた。何も起きない。
 さらに、ドアを開ける。まだ何も起きない。目の前にはいつもの空き部屋。ついにミリーノは単独でドアの外に出たのだ。だが、ミリーノにやってきた感情は、喜びではなく疑念だった。
─────やっぱり、おかしい。
 ミリーノがドアから出たと同時に、右側のドアがゆっくりと開いた。
「何をしている」
 魔法使いだ。明らかにいつもと違う。ただでさえ血色の悪い顔色が、余計に悪くなっている。唇は紫色になっていた。壁に手をついて、やっと立っているように見える。
 そして、魔法使いは、ぐらりと前に倒れそうになった。
「!」
 ミリーノは咄嗟に魔法使いの肩を、前から支えた。ミリーノの腕力はたかが知れていたので、魔法使いを長時間支えるのは無理だ。
 魔法使いはドアの境目に手をかけ、そのまま状態を起こした。床にばたりと倒れこむのは避けられたが、ミリーノの手は、まだ肩に添えられたままだ。魔法使いは眉間にしわを寄せた。
 ミリーノは知っていた。顔色が悪く、足元がふらつくという症状は、風邪の症状にあり、熱があるかもしれないということを。
 ミリーノは魔法使いの顔を見上げ、額に手を持っていった。
 パシン
 魔法使いは、ミリーノの手を払った。ミリーノを睨みつけ、息を切らしながら言った。
「余計なことは…する…な…」
 ミリーノの中に溜まっていたものは、一気に噴出した。
 パァン!
 魔法使いの顔に、ミリーノの手の跡が赤く残った。
「病人は寝る!」
 ミリーノは泣き出しそうなのを必死で堪えていた。魔法使いは目を見開いて、ミリーノの瞳を覗き込んだ。
─────心配させてくれたっていいじゃないのぉ…
 ミリーノは魔法使いを押し込みながら、自分もその部屋へ入った。そして、窓際にあるベッドに、魔法使いを押し倒した。魔法使いは力なく倒れ込んだ。
 唖然とする魔法使いだったが、ミリーノはそんなことお構いなしで動き回る。残りの部屋の扉を勝手に開け、台所やらなにやらから、入用なものを持ち込んだ。
 濡れた布切れで魔法使いの顔を拭く。ミリーノの部屋からベッドの布団をはいで、魔法使いにかけた。
「…なんで…」
 魔法使いは言った。ミリーノはこう答えた。
「心配だから」
 そのまま、魔法使いの手を握った。魔法使いの表情が、ふっと緩む。その手はやはり冷たかった。その手はミリーノの手をもはや振り払いはしなかった。柔らかく握り返す。
 ミリーノは静かに涙を流した。