カラス元帥とその妻 43

 全力疾走で病室に飛び込んできた人間に『おかえりなさい』と言われても、こちらはなんと答えたらいいのか分からない。
 いつも通り「ああ」と言ってしまってから、アカエが大分やつれているのに気付いた。
 アカエはゆっくりとこちらに近づいた。そして俺の頬に手を当てて、触れるだけの口づけをした。
「少し休むわ」
 そのままベッドサイドの椅子に座り、首を横に向けてベッドに突っ伏してしまった。彼女が眠りに落ちるのに時間はかからなかった。
 改めてアカエの顔を見る。派手に馬を飛ばしてきたためにそうなっていた先ほどまでの紅潮ぶりとは打って変わって、本当に青白いその顔。 
 何時の間にか入ってきていたマイケルは、ゆっくりと口を開いた。
「旦那様、アカエ様本当に心配してらしたんですよ。なにせあのアカエ様が眠れなくなっていたうえに、ここ二週間は一滴もお酒を飲んでないんですから」
 彼女は案外平気だろうと思っていた。俺が帰ってきたら、『あら、意外と早かったじゃないの』などと言ってのけるかもしれないとすら思っていた。
 でも違った。嬉しかった。
 思えば夢のような始まりだった。
 見合いの話を取り付けにあちらの国に赴いたとき会ったのが最初なのだが、アカエは全く覚えていないだろう。
 一目ぼれだった。
 例の見合いの直後に陛下に聞かれ、『一目ぼれを信じますか』と言ったら目を丸くしていた。
 あの黒髪、あの白い手首、あの目、あの足、あの声。
『あちらの国王陛下は大変聡明だと弟からうかがっておりますので、楽しみですわ。お会いできるのが』
 この黒髪、この白い手首、この目、この足、この声、この会話の切れ味、この微笑、この気風のよさ、この優美さ、この気遣い。
 もう手遅れだと分かっていた。それからあの日まで、地獄だった。俺は、国や地位、家を放り出せるほどの勇者ではなかったから。
 自分は一生結婚などせず、陛下を支えよう。そうすることが、この人を支えることになるのなら。そう思うことが、唯一の慰めだった。
 あの日一転した。
『私にはもう心に決めた人がいるのです』
 チャンスだ。
『私はその人を愛していて』『私は貴方とは結婚できない』
 俺がもらう。
 誰にも渡さない。俺だけのものだ。
 気が付いたら口が動いていた。まさかその企みが成功してしまうとは露ほども思わずに。
 アカエと結婚したという実感が湧いたのは、結婚式が終って、初夜も終って、翌朝起きたとき、隣にアカエがいるのを見たときだった。
 ゆっくりでなければならないと思った。アカエがこちらに慣れなければならないし、生活もある。本当は毎日でもアカエを抱きたかった。
 いつか見捨てられるかもしれないという強迫観念と、アカエに対する思いやりとが入り混じり、赤ワインという形で落ち着いた。ここから一番近いバーで手に入れるようにした。アカエにばれないようにしなければ。
 部下に新婚生活について散々冷やかされても、なんとも思わなかった。
『元お姫様じゃ、大変じゃないですか?』
『いや、そんなことは無い』
 お前らは知らないし、知らせる気も無いことだが、アカエにはドレスも似合うが白いシャツとフレアスカートも似合うんだ。
 その何日かあと、手料理を作ってくれた。味は不味かったが、一瞬もう死んでもいいと思った。夜、アカエの寝顔を見て思い直した。彼女はもう眠っていたのに衝動的に抱いてしまったことは、後からかなり反省した。
 ちょっと耳に息を吹きかけると、くすぐったそうにする彼女の表情が好きだ。
 俺が先にベッドで横になった夜、額にキスをして『おやすみ』といってくれたのも知っている。
 一度俺の職場を見に来たのも知っている。案内の男がアカエの近くにたっていたのが実は少し気に入らなかったが、わざわざ足を運んでくれた喜びで完全に相殺された。
 俺が孤児院出身だと話した夜、寒いのか夜の闇が恐いのが分からないが、とにかく俺の腕にしがみついてくるアカエに欲情したりもした。
 毎年恒例の舞踏会には本気で行きたくなかった。俺は上手く踊れない。だから、アカエにがっかりされるだろうと思った。そして同時に、王宮に出入りのある男どもにアカエを触れさせたくなかった。ささやかに所有を主張したりもした。
 実際、当日によその男と踊っているアカエを見つけ、どうにかなりそうだった。同僚の計らいで仕事を抜け出してきて本当に良かったと思った。そのあとしばらくアカエと一緒にいられた。初めて”カジム”と呼んでくれた。
 あのバーに行ったと聞いたときは、体中の血液が逆流寸前だった。驚き顔で椅子に座っているアカエを見たとたん、ほっとして、少し怒れた。
 そもそもアカエは自覚がなさ過ぎると思うのだ。俺としてはマイケルと楽しそうに話しているのを見るのすら嫌だ。本気でマイケル首にしようかと思ったこともあるぐらいだ。マイケルに恋愛相談を持ちかけられてお流れになったが。
 ”カジム”と呼んで欲しいと思っていた。でも少し今は考えが変わって、”あなた”もいいと思うようになった。
 二人称である”あなた”がイコール俺というのが嬉しい。
 …白状しよう。それと同時に実は抱いているときに『あなた』と呟くアカエの顔に、酷くそそられるのだ。