カラス元帥とその妻 32

 これからカラスさんはどうするおつもりなのかしら。
 私を池に突き落としてみるのかしら。それとも、自分で落ちる?
 にしても、鏡ヶ池物語なんてロマンチックな話が出てくるとは思いもしなかったわ。カラスさんの趣味?
「本はお好きなんですの?」
「いや。そういうわけじゃない。昔の…孤児院のころの知り合いに一人、昔話が好きな奴がいてな。よく話に付き合わされたんだ。おかげでメジャーな話は大体…な」
 ふうん。なーんだ。本読んだわけじゃないのか。
 まあ、一緒に暮らしてて一度も本なんて開いてるところ見たことなかったし、あの眼鏡かけてるところもお目にかかったのは一回こっきりだったことを考えると、すぐに分かることだわね。
 しっかし今思い出しても結構なお話よね。正直、子供に聞かせるおとぎ話じゃないわよ、あれは。有名な台詞があるんだけど、そこらへんが特に…ね。
「『恋に何時は関係ないわ』」
 なんとなく口をついて出ちゃった。一番有名な台詞なの、これが。でも、あんまり私は好きじゃない。だって、すんごくありきたりじゃん。面白みに欠けるわ。
 それに、私はこの先に続く男の台詞のほうがどっちかっていうと好み。でも、さっき言ったとおり、色々深読みできる台詞だから、ちょっと…。
 カラスさんがすうっと息を吸い込む音がした。そして、彼は。
「『ならば私は今、その深き池に落ちよう。そして深く、深く沈んでしまおう。そうすれば何も恐れるものはない世界へとたどり着くかもしれない』」
「! 覚えてらっしゃるんですの?」
 私が呼んだ本にあった台詞と大体おんなじ。
「言っただろう。よく話に付き合わされたんだ」
 と、言うことは、その先の台詞ももちろん覚えてたりするのよね。
 一瞬、カラスさんがにやっとしたように見えた。
 …しまった。チェックメイトかけられた。
「『そして、あなたに尋ねよう。その深き池により深く沈むために、私はいかようにすればよいのかを』」
 しばらく沈黙があった。この後に、女の台詞が入るのは分かってる。でも。
 だめ! だめだぁ! 原作どおりにやるのは、私には無理よっ!
 あなた、降参。降参よ。ホントに完敗だわ。
 私はゆっくりカラスさんの方に寄っていた。
 周りにはやっぱりカップルがいる。
 背伸びして、カラスさんの唇をじっと見つめて、そして、軽くキスをした。
「…宿に戻りません?」
「分かった」
 カラスさんは私の肩を抱いていたけれど、私はやっぱりカラスさんの顔をちらりと覗き込んでしまった。
 案の定の仏頂面。でも、なんだか嬉しそうに見えなくもないかも。
 結局そのまま宿に帰ることになったけど、宿についても部屋についても、まだ時間は三時半過ぎ。
 ただし、池での会話を思い出すと、その先の展開が簡単に読める。
 だって、あの後の台詞が凄い過激だってことぐらい、私も覚えてるもの。
 っていうか、カラスさんが口にした台詞だって、ものすごーく深読みしようと思えばできないこともないわけで。うわあ。
 それを裏付けるかのように、カラスさんはドアに鍵をかけ、カーテンを閉めた。
「あなた?」
 呼びかけに答えるかのように振り返り、部屋の真中にいる私をベッドに押し倒す。
「やっ…いった…」
 まじで腰ぶつけた。いったーい…
「すまん」
 …うへぇ、カラスさんの目がマジだわ。本気と書いてマジと読むッ。これはどう見ても、『すまん』なんてかけらも思ってない感じ。
 ああ、わけわからん。どーしよー。池での続きをやってもらいたいってこと? ってかそれしかないじゃん。
 落ち着け私。ここはどーんと誘うべきじゃないのか? どーんと。いや、むしろ池でのことを考えると、降参サイン出すのがいいかしら。
 だとしたら、やっぱり続きの台詞を言うべきよね。
 でもすぐに言うのはちょっとむかつく。
 だってあなたあの時、明らかに私のことからかってたでしょ。
 しばらくじっと睨む感じで状態維持。
 カラスさんは少し体を離してじっとしていたが、ふうっとため息をついた。そして、額に軽く口付けた。
 だんだんカワイソーになってきちゃった。でも、もう一息。
 よし、ちょっと体を起こして、『もう駄目か』な顔になってきた。カラスさん、無理強いするのは好きじゃないもんね。
 そろそろ勘弁してやるか。はあー。
「『…今、ここで、その深き池に自らを深く…深く沈め、一つになればよいのです』…て…っ……ん」
 こんな台詞、野外で言えるかっつーの。
 で、晩御飯の時間は六時なので、この先二時間半はちょっとはしょらせて。
 頼むから。ていうかそんなの…無理だから。