カラス元帥とその妻 22

 曲が始まってほっとした。やっぱり予想通りテンポの遅いやつだったから。
 ステップとかもテキトーに流せば、これなら何とかやれるしね。
 さっきからカラスさんの表情ちらちら見てるけど、結構落ち着いてるし。
 …そういえば、この人が焦るとどうなるのかしら。
「アカエ」
「ん?」
「前の奴はずいぶん緊張していたようだな」
「…みたいね」
 不機嫌な声色の彼。やっぱり、気づくわよね、あの男の手の汗がべったり染み込んでるのには。
 っていうか、お前が睨みつけたからだって。あんなのきたら誰でも引くって。
 それに、あなたの力の入り具合も結構負けてないかもよ。
 でも話す余裕があるってことは、ものすごく緊張してるってわけでもないってことかしら。『ちょっと緊張』程度かな。だとすると、元来馬鹿力ってことね。そうよね。あれだけ筋肉ついてるもんね。
 そうすると、カラスさんはかなり力加減して私を抱いてたわけだよね。あっちが全力でぐいって抱きしめたりしてたら、今ごろ肋骨が一部いっちゃってるかもってことか。はは、笑えない。
 と、思っていると、カラスさんがさっきよりも少しだけ私を抱き寄せてきた。
「あなた、いいの? あんまり職場で冷やかされたくないんじゃない?」
「いい」
 カラスさんは丁度私の耳の辺りで、ぼそっと呟いた。息がちょっとだけかかる。
 やばい。今のでちょっと体温上がったかも。
 さっきまでダンスパートナー達をさばいていたあの自信はどこへいったの?
 カラスさんより私のほうが緊張してるかも。カラスのばか。
 あ、カラスさんの軍服、ちょっと汗臭い!?
 ヤナがほとんど毎日洗って、しっかり干して、アイロンも掛けてるはずだけど、まだダメなのかしら。男の人の体臭って、やっぱり女よりもきついのね。
 まあ、それ以上に、今日は特に忙しかったんだろうなぁ。
 そんな忙しい旦那様を独占♪
 きっと同僚にせっつかれて、嫌々出てきたんだろうけど。
 私と踊ってるのだって、”社交辞令”なんだろうけど。
 それでも、ちょこっとは愛ってやつも含まれてる…と、いいな。
 私はどうなんだろう。私は、カラスさんのこと、好き?
 …割と好き。
 でも、愛してる?
 …わかんない。
 ぐるぐるごちゃごちゃ考えているうちに、音楽が止まってしまった。
 カラスさんが私の腰から手を離したから、少し背中が涼しくなって。
 私からも離れたから、少し前も涼しくなって。
 そうか。もう仕事に戻らないといけないのか。
「お仕事、頑張ってくださいね」
 そう思った。けれど、返事は予想外のものだった。
「まだもう少しいいから、会場出ないか」
 だから、ちょっとだけ、返事が遅れてしまった。
「ええ」
 さっきからカラスさんは手に汗をかいていたから、カラスさんが握っているその手は、なんだかぬるっとしている。
 しかも、言っていた通りの馬鹿力だから、実は少し手が痛い。
 カラスさんは、ごちゃごちゃ話し合っている人たちに適当に首をかしげて会釈するだけで、一言も発しない。
 代わりに私が、『失礼』『ごめんあそばせ』などと付け足している。
 パーティー会場をこんなに早く抜け出せたのは初めて。
 男連れ、っていうか、”カラス連れ”の力は強いわね。すばらしいわ。
 会場を一歩出ると、そこは屋外の庭に面した廊下だった。屋外の風が中に入って来る。
 確か結婚式のときは荷物置き場になってたところだ。つまり、私は正面玄関から入って、今、建物の西側に出てるってことかな。
 周りには、女を口説いている男もいれば、ちょっとめんどくさくなって抜け出してるッぽい人もいる。もちろん、軍の警備が”くまなく見守って”いるけどね。
 カラスさんは相変らず手を握りっぱなしだった。それでも、少し力が弱くなっていたから、手と手の間にも風が多少吹き抜けられるぐらいの隙間が空いた。
「「ふう…」」
 ため息がかぶる。
 カラスさんはちらりとこちらを向いて、すぐに目線を逸らしてしまった。でも、口が少しだけ開いている。
 何か言いたいの?
「アカエ」
 何を言うの?
「一つ…その…」
 何?
「頼みたいこと…というか…お願いというか…」
 『お願い』という言葉がここまでカラスさんと不釣合いだと気づいたのは、今夜が初めてよ。
「何?」
 ちょっと首を傾げてみる私。でももう可愛い年は過ぎたし。っていうか、私過去に一度でも可愛かったことがあったかしら。色っぽいとか美人だとかは結構頻繁に言われてたんだけね。あ、自慢がましかったかしら。
「その…たまには、名前…で…呼んで欲し…い……いや、別に…その…あっと…『あなた』って呼ばれるのが嫌なわけじゃ…けっ、決してないんだが…たまには…そ」
 その、と付け加えたかったんだろう。
「分かったわ、カジム」
 少しの間、カラスさんは動かなかった。まさに、一時停止、な感じで。
 その後、いつもの仏頂面にちょっと気合入った感じの表情で、こっちを向いた。そして一気に言った。
「宿泊用の部屋は余っているはず」
「ちょちょちょ、ちょっと待って、あなた、何言っているの? 仕事は?」
「…」
「だめ」
 で、今回は私が押し切りました。
 だって、仕事サボっちゃ駄目でしょ、あなた!