惚れ薬。
でかでかと掲げられた看板の前に、サキュバスのフォニー・アイネスは拳を握りしめた。
どこからどう見ても人間にしか見えないように耳をストールで隠し、しっぽをスカートにしまい込んで準備に準備を重ねた姿。フォニーは再び拳を握りしめた。
—————これしか、ない。
若い男の夢に入り込み、精力を吸い取って魔力に変えるのが生業。
しかし今、アガリが全く足りていないのだ。
ほとんどのサキュバスのターゲットは十代後半以降だが、フォニーの場合十代前半か一部のマニアに限られる。
そもそもの母数が少ないうえ、若い子だと性欲と恋愛感情の区別が曖昧、性欲を精力に変換できていないこともあって。
—————もうちょっと胸があれば…!
「ちっぱい」「シンデレラサイズ」などなど、表現は増えているが、結局多数派の野郎どもにはしっかり揉める胸のほうが好まれるっちゅう実情。
新規開拓がうまくいかなかったところに、偶然マニアックな趣味の持ち主を引き当て、大当たり~vと安堵していたのだが。
—————ノーマルに嗜好変更しちゃうのは大誤算だった…。
飽きられたのだ、要は。
いくら好きでも毎晩夢に出てきたらそりゃそうで。『たまには違うのも』と思ったらしい。その隙をついて、他のサキュバスに盗られた。たわわな武器にご満悦顔でほおずりしているあの様子、今思い出しても腹が立つ。
精力をガンガン吸われているので現実の寝顔は蒼白なのだが、それでも薄笑いを浮かべていた。
欲をかいた自分の失策でしかないものの、あんなにあんなに…あんなに! だったのに、あんなアブノーマル野郎があっさりと多数派野郎の仲間入りを果たしてしまったわけだ。
そして今日。もうそろそろ魔界に戻ってアガリを収めないといけないのだが、まだ魔界に戻る分の魔力すら足りていない。
人間が魔界の門を開くには生贄が沢山必要だが、魔族なのでそんなことはしなくていい。
この左手の甲に浮かび上がっている通行証を、呼び出した魔界の門にピッとかざすと開く。
もちろん魔力が足りていればの話だが…。
フォニーが考えた最終手段は惚れ薬に頼ることだった。
嗜好云々ではなく、惚れさせてしまえばいいではないか。
人間が作る惚れ薬がどれほど利くのかわからないが、魔界製の惚れ薬では効力が強すぎ、ひ弱な人間は死んでしまう。
すがる思いで、フォニーは恐る恐る惚れ薬屋の扉を開き、中に入った。
部屋の中は種々の薬物と獣のような匂いが混ざり、むわっとした空気。
カウンターに人はおらず、雑多な瓶・薬草・道具・その他よくわからないものがごちゃごちゃと並んでいる。
恐る恐る、
「す、すみませ~ん…」
返事がない。声が小さすぎたのだろうか?
もう一度、
「すんませーん!」
誰も出てこない。
ガチャ
「どうかしたのか?」
「うぁわわわ!!」
真後ろから声がした。
フォニーがさっき入ってきたところから現れたのは、黒ローブの男。フードから脂ぎった髪の毛と、土気色の顔がのぞいており、両手は大荷物だ。
それよりも特徴的なのは、両目を完全に隠すように付けられた金属の眼鏡というかゴーグルというか、なんというか…。
目隠しというのがふさわしい気がするが、一応目の場所に魔法陣のように精緻に目のマークが書かれていた。
なんでか前は見えているようで、カウンターの上にある荷物を器用に横に除け、持っている荷物を置いて中身を取り出している。
魔族のフォニーが言うのもなんだが、歩くたびにふわりと漂う汗臭い? というか、形容しがたい異臭で気持ち悪さ三割増し。
そのまま男が何も言わずに奥に向かおうとするところ、
「あの! ちょっとまって!」
ふてぶてしく振り返る黒ローブの店員、いいや、この態度の大きさは絶対店主だ。
このまま奥に消えて行かれては困る。ていうか、商売する気あるのか?
「惚れ薬、あるんでしょ?」
「ないぞ」
「は?」
いやいやいや、ちょっと待て。
「看板に書いてあるじゃない、惚れ薬って」
「あれはちがう」
どう思い出しても、一文字ずつ思い出しても、HOREKUSURI(ほれくすり)としか読めない。
そう思っていると、黒ローブ男はチラシのようなものを持ち出した。
看板に書いてあった、フォニーが脳裏に浮かべている文字そのままだった。
「どう違うのよ!」
チラシをゆっくりとカウンターの上に置いた黒ローブ男は、そのままカウンターからフォニーの横までやってきた。
そして、一度改まったようにフォニーを正面に向きなおり、直立の姿勢を取って息を整えた直後。
謎のポーズを取り始めた。
両手を上にまっすぐ上げる、右足・左足を交互に上げ下げする、等。
口をはさんではいけない謎の空気感。そしてまた直立の姿勢を取り、息を整え、
「ということだ。わかったか?」
「何それイミフ」
口をついて出たフォニーに、黒ローブ男はため息をついた。
「HOREのところに人の形が書いてあるだろう! これはそういう言語だ! 文字の形と人の動きを組み合わせによって表現している。HOREKUSURIの意味は惚れ薬ではない。『さまざまな種類の薬の店』だ」
真剣かつ『何故わからないんだ、当たり前だろう』感の黒ローブ男の表情に、フォニーは思った。
—————DQN……!
やってしまった。ここにきてコレ引いちゃう!?
フリガナすら振られていない謎の文字に自信満々の怪人。
でも、ここで怯んでいては始まらない。
「そんなの知らないし。てかなにその…言語とか、見たことないし」
「古い古い言葉で日常利用はされていないものを、改善して俺がロゴに作りかえたものだからな」
「あんたが勝手に作ったとか、誰もわかんないじゃん。そんな看板じゃ客こないっしょ」
黒ローブ男はハッとした顔になった。
わかった。こいつ、DQNではなくアホだ。それ、もっとアカンやつなんじゃ…。でも、
「惚れ薬、ないんなら作れないの?」
フォニーには拠り所がなかった。
「ない。材料がない。それを作ってどうなる?」
「あたしが使うのよ」
「何故?」
「ほ、惚れさせたい相手がいるからよ!」
「何故?」
「何故って…そんなんどおでもいいでしょ? こっちは客なのよ」
面倒とぎくりとしたのと両方だ。
「悪事に利用されてはいけないからな」
ギクギクゥッという音が自分でも聞こえたような気がしたが、フォニーは無視した。
アフォのくせになんでいきなり常識人なのか。
「そんなことしないわよ」
「じゃあどんなことをする予定なのだ? ん?」
「なんだっていいでしょ」
「…まあどのみち材料がないからな。帰れ」
もういいか。人間だからと思っていたが、フォニーは魔族。暴力的説得でいくのも、選択肢か。
サキュバスは元々魔力は強い方。薬屋風情に負けることはない。
でも、それは最終手段だ。
「わかった。じゃさ、これとかさ、代わりになったりしないの?」
何の気なしに、手近にあったかなり大きく縦長の瓶を小突いた。
中に液体が入っているらしく、思いのほか重さがあった。
「やめろ!」
「え? なによ、そんな大事なの? …あっ!」
言われたからには面白いので、話しながらちょんちょんと、追加で小突いたその力加減を間違えたのだろう。
瓶はカウンターの上でクルリと一回転し、そのまま転がって床に落ちた。
ガシャーン、と瓶が割れる音が響き渡る。
「お前っ…」
「え?」
急に黒ローブ男の空気感が変わった。