あんなに気になったのはなんでか。
ジョットは今しがたすれ違った制服姿のユンを思い出しつつ玄関を出た。
別に普通だった。
思い煩いながらも足は目的地に向かって。
そろそろ来る頃じゃないかと思っていたら大正解。
梢の隙間から箒にまたがって速度を落としながら、黒ずんだローブをはためかせて飛んでくるのが目に映った。
「いらっしゃい」
切るのも洗うのも面倒で放置している黒いロングヘアがべったりしている。
顔色が悪いのはいつものこと。
前回会ったときはだいぶましになっていたのに、ここにきて昔を彷彿とさせるダメぶりなのは急いできてくれたからか、それとも。
当のベータは開口一番、
「大変そうだな」
挨拶もないことをを気にするようなジョットではない。
もっともこの時はもっと気になることがあったから、労いの言葉に返事をするのも忘れていた。
─────この目元、一体…。
いつもは金属製のカバーみたいながっちりしたやつなのに、今回は布を巻いているだけ。
同じなのは目の位置を絵で書いていることだけだった。
歪んだ線が急ごしらえの感。
何かあったと察しつつ、自分のことが先になる。
「急にごめんね」
「いい。気にするな」
「そう言うと思ってた」
屋敷の中で待っているユンに目配せだけして、ベータとともに階段を上る。
「小屋の道具類は?」
「森に入る時の魔物よけだけで、他のは劣化したのがあったら」
「小屋の封と魔力波動吸収の状況も後で見ておく」
「お願い」
部屋に入るなりベータはローブを抜いて適当に放り出し、手際よく重そうな荷物から中身を広げだした。
「急ぎってなんだ?」
「部屋でみんないるとこで話したい。
手紙に書かなかったのは万が一を避けたかったから。
まだ情報がないんだ。
領地経営の収入がここ最近よくなってたから、いずれはと思ってたけど…思ってたよりも早くなっちゃったね…」
もっとずっと時間が立って、あの『海賊』と呼ばれるようになってしまった人の顔を思い出せる人がいなくなってからが良かった。
「まあ…わからんが、お前の領地経営の腕がいいということだろう。
最初来た時のこの土地の有様といえば悲惨だったからな。
恩恵に預かっている身としては有難い」
そのまま少し懐かしそうな雰囲気を醸し出すベータ。
釣られてジョットはあの日を思い出した。
「あれからもう10年以上経つんだね」
「うろ覚えだな」
「そうだね。うろ覚えになるような歳になったし」
「お前はな」
「いじるなよ。下に行こう。
ユンさんがお茶入れてくれてる」
「頼んだのか?」
「頼んでなくてもそれぐらいはやってくれるから」
「そうなのか…」
「ベータと違って人の頭の中は読めたりしないけど、仕事でそういうもんだってわかってるから」
「いや、なに。
うちの同居人はそういうことを一度たりともしたことがないものだから」
ジョットはなんとなく心当たりがあった。
「だってさ、ベータの普段の他人に対する態度、酷いもん」
人を人とも思っていないというか。
集団で物事をすることが明らかに向いていない性格なのだ。
そのくせこっちが怒ると『なんで怒ってるの?』『そういうもんなの?』『むしろこっちのほうがいいじゃないか?』ぐらいの反応。
同居人さんが面倒臭くなって扱いを雑にする——『ああ、もう勝手に自分でやれよ!』的な——気持ちは、過去『海賊』として一緒に過ごした時間から嫌というほど思い知っている。
ただ一つ大きく違ったのは、今のジョットの言葉にベータがしょげていることだった。
「…気を付ける」
ダイニングへ向かう道すがら斜め後ろでボソリと発せられたこの言葉に、今日は矢が降るかとジョットは目を丸くした。
なにせベータは人の心が読める。
ジョットとジーがやりとりしている『波』による意思疎通は、本人が意図的に発信したものだけ伝えることができる、いわば言葉の代わりだ。
でもベータの場合は違う。
正真正銘、他人の考えていることが筒抜けになる。
おそらくは人間の心の有象無象を意図せず読み取って耐えられなくなった結果、気遣いするという能力をどこかに捨てたのだろうと思っていた。
横を歩くベータの目を覆う布を見る。
─────10年であのベータさえ変わるってことか。
自分は?
問いかけはダイニングのお菓子と紅茶の香りでかき消された。
とうとう。
着席したまま、ベータとユンが目——一方は目じゃなくて目の絵だけど——を合わせている。
大丈夫か? 耐えられるか?
「ユンと申します。よろしくお願い致します」
「ベータです」
ユンはいつも以上に唇に力を入れ、きりっとしていた。
普通の人だったらあの目の布に突っ込みを入れてしかるべきところ。
─────さすがだよユンさん!
スルースキルが第一級。
そうでなくてはここ領主館ではやっていけない。
「前は見えている。ピンホール効果と言ってな。
穴も意図的に開けているからむしろ普通より良く見える」
唐突なベータの声。
ユンは表情でスルーするという礼儀を払っていたのに。
速攻で思い切りなかったことにするベータの空気読まなさたるや。
ジョットは口調もかつてそうしていたように窘め路線になった。
「ベータ」
「あ、」
無意識だったらしい。
ジョットはつい苦笑した。
自然にできることを隠すのは難しい。
ベータの能力は生まれつき。
ジョットのように『同じ釜の飯を食った仲間』がいたわけではないから、比較すらできない。
致し方なしとわかっていながらも、隠す訓練をする必然がベータになかったのもまた事実。
多少ジョットは羨ましく思った。
「ユンさん、そいつ、時々ちょっとだけ、至近距離にいる人の心が読めるんだ」
「すまん」
だいぶすまなそうだった。
さっき気遣いのことを指摘されたばかりだったからか。
─────前だったら『ああそうか』ぐらいの、なんならふんぞり返りそうな感じだったのに。
「いえ…大丈夫です。承知しましたので」
ユンさんの語尾がちょっと強くなっている。
唇をより一層強く閉じているのを見て、ジョットは申し訳なく思った。
合わせて、そのユンの様子を見たベータが落ち込んでいるのを見て、ますます気になった。
─────何がベータをこんなに変えたんだろう。