黙って踵を返すこともなく帰宅し、そのまま寝ておきたら翌日の夕暮れ。
食卓にはここ数日何事もなかったかのように着席するベータ。黙って着席するフォニーもフォニーなのだろう。
これが日常ってこと?
不思議な居心地の良さ。もうあの件は忘れることにしようという決意が固まった。
そしてだからこそ、二人の視線は自然とカレンダーに向かった。
「あと三日ね」
ベータはもごもごと咀嚼音を立てながら頷いた。
実のところ準備はほぼ全て終わっている。
場所の確認、調味料が腐敗したりしていないかチェック、家の耐久性再チェック——そんなことしないと危ないような人ばっかり来るし、この前蛸魔人が挟まったから余計きしんでいる——などだ。
泊りがけなのか? とずいぶん前に聞いたが、夜通し飲み倒して皆潰れて帰っていく、というか持ち帰られていくらしいので宿泊準備は不要。
つまり、当事者全員が当日はヤバイ状態になるということであった。
それを見越し、チェック類の傍ら、ベータは今のうちにと呪符や栄養ドリンクを量産していた。
出来た物をせっせと亜空間に収納していくが、それでも足りず、店の足元に箱と瓶と紙切れが広がっている。
ガサガサとそれらを集め、箱詰め・袋詰めしていくが、とうとう屋内への入り口がふさがりそうになった。
その時、
「来い」
箱を抱えて立ち上がったベータは、普段の半分の幅になった入り口をまたいだ。
「魔法使えばいいじゃない」
「魔力を節約したい。お前も袋を持て」
—————ベータでさえ三日前から節約しておかないとヤバイ宴会なのか…。
湧き上がる恐怖心を抑え、言われるがまま呪符が詰まった袋を抱きかかえ、ベータは階段を上っていく。
付き合って階段を上った後、ベータの背中は普段フォニーが行くのと逆の方向に曲がった。
ということは。
ベータの背中で見えない向こうにある、ドアが開いた。
ふわりと、普段の店よりも濃厚な薬草のにおいと、別の、汗や体臭から湧き上がる男くさいというか、獣臭いにおいが混ざる。
「あ、えっ、エェ?」
すたすたと部屋に入ってしまうベータの後ろについていくのを躊躇していると、ベータはとっとと適当な場所に箱を置いて踵を返していた。
入ったときと同じようにスタスタとフォニーのほうに向かってきて、
「あの辺に適当に積んでおけ」
フォニーとすれ違いざまに呟いて、階下に消えていく。
あっけにとられながらフォニーは一人、空いた男の部屋のドアの前に取り残された格好だ。
「ええんかコレ?」
素で口走り、部屋の中へ一歩。
が、そこで気づいてしまったのだ。重大な事実に。
—————しまった、何仕掛けられてんのか、分かんないじゃん! この危険地帯!!
フォニーのわきの下に変な汗が吹き出し始める。
男の部屋に入るのに、こんなに緊張したのは初めてだ。
生まれて初めて狩りに出た時もここまでじゃなかった。プライバシー云々もなくはないが、ちょっとついうっかり、で可笑しな実験をフォニーに施してきたベータの自室。
本人はあんな感じだったが、自分で足を踏み入れたフォニーは今になって地雷原に向けて背中を思い切り押された気持ちになっていた。
慎重にベータがたどったのと同じところを歩く。だったら大丈夫なんだろう。たぶん。きっと…?
ゆっくりと箱の横らへんに袋を置こうとしたところで、背後から足音が聞こえた。
「おい、もうちょっと向こうに置け」
ベータがフォニーを肘で小突いた。
フォニーはそのままよろけ、倒れそうになる。それも、ベータが一度たりともフォニーの目の前で足を踏み入れていない地帯に。
「ちょっと!!! なにすんのよ!!」
何とか踏みとどまりながら叫んだフォニーに、ベータは眉をひそめた。
地雷原に向けて背中を押す、が現実になって涙目のフォニー。
「普通に作業すれば」
「アンタ、この部屋、マジでなんもないわよね」
「…とは?」
—————これだよ。全く。
「魔法かかってるとか、呪符貼ってあるとか、魔法陣とかさぁ、大丈夫!? ホントにっ!??」
フォニーの口調は、我知らず怒りから懇願に変わっていた。
ベータは顎に手を当て、うつむきながら足元を向いた。ゆっくりと首をかしげるような動作をし、そのまま、おそらく時計の秒針が五つくらい前に進んだころ、
「…ああ、大丈夫だ」
「その間は何?」
ベータはキリっとして、
「一通りここしばらくでやったことを思い出していた。おおむね片付けている」
「おおむね??」
不安極まりないキーワードが出て来たところで、フォニーは当日のことも不安になった。
「あのさ、ちょっと思ったんだけど、置き場所、ここでいいの?」
ベータはきょとんとしている。
「だって、当日アンタ酒飲んでんでしょ? だったら、この部屋の中に置いといたとしてさ。その荷物、安心してここに取りに来れる奴誰もいないじゃん」
何を不安がっているのだろうという様子で、さも当然の顔でベータは。
「お前がいればいいだろう」
「え?」
そのままベータは箱を降ろし、スタスタといなくなっていく。
—————なんやこれマジで。
立ち去るベータの背中が見えなくなったところで、袋を部屋の隅の方に置いた。
改めてみると、通るところ以外の床には何かしら物が散らかっていて、足の踏み場がない。
不思議とフォニーの体が軽くなる。どこかで慣れた何かを感じたものの、そのままフォニーは部屋を出た。
往復すること十数回で、一通りのものを壁際に置ききると、フォニーは最後、そっとその部屋のドアを閉めた。
ベータは店の床の片付けに入っている。
今日はもうこれで作業終了というところか。
床の掃除はフォニーに任せ、寝る支度をし始めたベータ。
全て終わったところで、フォニーに、
「あと二日分、同じことをするから」
フォニーの返事を待たずに、ベータはそのまま自室に消えた。
あの、荷物だらけの部屋に。
—————真っ先にアタシの部屋、荷物置き場に使うかと思ったんだけどな。
フォニーはその日そのすぐ後に、がらんと空いた自分の部屋を眺めた。
どう考えても場所はこっちのほうがあるのに、ここは荷物置き場にする気はなさそうだった。
今ではもうフォニーも気づいていた。
たぶん、この部屋はベータの母親が使っていた部屋だ。
—————どんだけマザコン?
でもフォニーにその部屋を使わせていることについてはコメントが浮かばない。
まあ、ベータの自室にサキュバスを置いておこうと思わなかったのは分かる。
野宿させようと思わなかったのも大正解。魔族の定宿が家のそばにできているとなれば、それだけで人間が狩りに来てしまう。
ベータ自身の安全を保つためにも、この部屋にフォニーを隠したというのが正しいのだろう。
ベータは、他に何を隠しているのか。
フォニーの頭の中は丸裸なのだろうが、ベータのことはよくわからない。
自分のことをべらべら喋って陶酔するタイプでもない。というより、喋る必要を感じていないと見える。
それ自体、この家に隠れ住んでいる状態、また、人が来たとて拘わらないほうがいいという事実から、自然そうなったのかもしれない。
元の性格もそんなだから、環境と性格がたまたまピッタリフィットしてあんなんになってしまっている気もするが…。
いよいよ近づいた大宴会で、少しでも真相に近づけないか。
前はそんなに気にもなっていなかったベータの中身が今まで以上に気になりだしたフォニー。
まだまだ目もさえているにも拘わらず森をそぞろ歩きする気にもなれず、階下で明け方まで何をするでもなく時間をつぶしてしまっていた。