ドラッグストアへようこそ 42

 あの男がベータだったら、フォニーはどうしていたろう。
 このベータのローブは無臭だし、現実にもフォニーが不衛生指摘してから気を遣っているのでここまで汚れていない。
 その代わり、薬草やらなにやらの匂いが染みついていた。
 真っ暗な他人の夢から現実への通路の中、フォニーは取り留めもなくベータの服の匂いや出がけに凝視した後ろ頭を思い出したり、先ほどの男にしたように頭をなでることを想像したりし。
 精力で小腹を満たしたから、おかしなことも考える余力が出たのだと言い聞かせてフォニーは行きずりの男の夢から飛び出した。
 ベッドサイド。男の後ろ頭。カレンダー。バッグ。靴。服。水差し。盥。などなどなど。
 夢から抜け出した男の部屋は入ったときと変わらない。
「ぅん…」
 分かりやすくうなされる男を尻目に、窓の外へとすり抜け、雑木林で服を着替え。
 夜の街に飛び上がる。
 一泊分の荷物のうちいきなり洗濯ものだけ増えてしまった。
 ゆっくりと、これまでは箒に乗ってベータにしがみついていたから視界の一部が遮られていたが、それもなく見える夜の道はいい。
 前から当たる風が涼しく心地よいが、物足りない気もする。
 広い景色、見える緑の芝生と土と岩肌が混ざって見える孤児院までの道のり。
 横目で見ると遠いところを眺めることが多いのだが、今は足元と前だ。
 ベータがいないと前が見やすいが、不在と、最近無臭になったローブと、温かさを思い出す。
 しかし今はフラットに前を向くときだ。
 夜の風景の向こうのほうから明るくなる気配。
 と同時に、孤児院の庭先も見えてきたので追い越してその向こうの森の入り口に。
 この辺はよくわからないが、大体孤児院があるような場所は見張りやら警備やらといった国の重要ポジションなどない。
 というか、そんなの立てられるような裕福な土地柄なら孤児院なんて建てられないから。
 分け入り、林の木の上に舞い上がり、腰かけ。
 荷物の中身を整理しながら、日が昇るのを待つ。普段部屋で寝に入る時を思い出す。
 静かで、だれもいないような部屋。起きると物音がして、ベータがウロチョロしているのが分かる。
 フォニーは自分が、魔界で過ごしていた時のことを思い出せないことに気づいた。
 人間の住まいに狩りに出ていないとき、自分の部屋でゴロゴロしていたと思うのだが、ベータと過ごしている今の日常が色濃く、過去はピンボケしている。
 この林のすき間から見える孤児院の姿のようで、少しでも近くするために、徐々に上る日差しがついに上り切ったその時、フォニーは自らの足で地面に立ち、孤児院へと歩き出した。
 歩きながら羽を隠し、頭にはショール。
 といっても往来には人一人いない辺鄙なところ。
 上空から見ていた荒れた小道を自分で歩くと、思いのほか距離があり、孤児院の前にたどり着いた時にはもう授業が始まった時間だったようだ。
 ドアをノックする。
 前にベータと一緒に来た時と同じく、ドスドスより軽い足音が聞こえ、
「フォニーです!」
「ああ、いらっしゃい」
 ドアが開くと、クレアはフォニーが来るのを知っているように笑みを浮かべた。
「特に連絡していないんですが、1日居させてもらっていいですか」
「え? 院長から今朝連絡のお手紙受けてるから大丈夫。もしかしたらって」
 ベータは咄嗟にたぶん、フォニーの心を読んで、知り合いのところに出かけることを掴んでいたのだ。
 結局首根っこは掴まれているのか。
 自覚して悲しいが、今日はその打破のために来たのだ。
「部屋お借りして、寝させてください。夕方ぐらいに帰ります」
 実のところ、眠くてたまらない。普段なら明るくなった数時間前には眠りについている。
 フォニーとしては、夜更かしならぬ朝更かししている状態だった。
「こっちなら」
 案内されたのは仮眠用の部屋。
「院長が来た時に使ったりしてたのよ。フォニーさんが来た後は1日で用事全部済むからいらなくなったけど」
「じゃ、ありがたく…」
 会釈してドアを閉めると、ベッドにそのまま倒れ込む。
 なんと有難いことに、シーツだけ取り換えてくれているらしい。
 毛布が落ち着く。どこかで嗅ぎ慣れた香りがただよっているからか。
 いつも家で、今住んでいる家で嗅いでいる気がする。薬草と、何かの混じった香りがすこしだけ。
 ぼんやりと穏やかな心地の中、フォニーの意識は消えて行った。

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 寝すぎた。フォニーはクレアに話を聞こうと思っていたのに、もうたぶんクレアが寝に入る時間間際なのではなかろうか。
 夜も過ぎ、夕食の時間も過ぎ、たぶんだけど子供たちが『おやすみなさ~い』とか言っている。
 跳ね起きて、足音を消し、クレアの姿を探すと、子どもたちの部屋のドアを閉めたところだった。
「おはようございます」
「ふふ、おはよう」
 穏やかに笑うクレアだが、この後おそらく就寝予定か。
「私はこれからお茶にしますけど、何か口にした方が」
「いえ、栄養ドリンク持ってきてるんで、アタシの分はいいです」
 といって、そのままティールームに腰かけた。
「で、何があったの?」
 クレアが何だかニヤニヤしている。
「手紙、何書いてあったんですか?」
 どう考えてもベータからの手紙に何か、フォニーが思いもしていないことが書いてあったとしか思えない。
 でなければクレアがこんなに訳知り顔になるはずないのだから。
「うん? そんな大したことじゃないんだけど、家出していてたぶんちょっとしたら戻るだろうけど、その前のどこかでここに寄るかもしれないから寝床を貸してやってくれって」
 しれっとしているが、これほんとに全部本当なのか? と思いながら、クレアのにやにやが止まらない。
「だってねぇ、こんなの魔法使ってわざわざ即日ポストに投函するとかこれまでなかったから。
 面白いじゃない? すっごく。
 何? ケンカでもしたの?」
「図星です」
 クレアは腹の底から笑い声を挙げそうになるのを必死でこらえて机に突っ伏した。
「そんなに?」
「いや、うんっ…ふふっ」
 止まらない。ようやく顔を上げたクレアは笑いすぎて涙目。
「なんかね。あの院長が、同居人の家出に慌てて手紙出してくるってのがね。
 どんな顔してこれ書いたのかしらって…心配なのね」
 嬉しそうだ。
「結構なケンカしてんですけどね。しかも怒ってたの向こうなんですけど」
「そうなの? じゃ、より面白いわ」
 ティーテーブルに身を乗り出さんばかりの食い気味。
「簡単に言うと、アタシがベータの親のことを『それどうなの?』って悪く言ったんですよ」
「親!? っあっと、声大きかった…」
 クレアがこんなにもくるくる表情を変えているのは、
「聞いたことなかったわ、そんな話。何? もう二人はそういう関係なの?」
「へ?」
「じゃなくて?」
—————そういう関係って?
 よくわからないままフォニーは、
「たまたま向こうの親が年に1回あの家に来るんだそうで、その日にかち合うからどうのこうの…」
 魔王です、という確信に触れずに息子の顔を見に来る感の話をすると、クレアも『そういう関係』には触れず、
「うーん、親子関係微妙なのね。私院長についてそんなに知らないから。
 分からないけど、人間としては嫌だって思うこともある発言よ。
 でも、あのくらいの歳だと別にそんなに、」
「気にしないですよね」
 たぶん人間では大の大人なのだろうから、そんなのでいちいちピーピー言うだろうか。
「うん。まあ、でも謝ったんでしょ?」
「ええ。正直なんでそこまでって思いましたけど、よくわかんないけどゴメンって」