ドラッグストアへようこそ 41

 他人の夢に土足で入っていく羽ばたきは軽快に、しかし静かに。
 夢の入り口から奥の方へと進んで見当たった、急に明るくなるエリア。
 思いのほか早く入り口より内部にたどり着いたのは、おそらく男の眠りが浅いからだろう。
 とすると、途中で起きてしまう危険があるので早めに切り上げる必要がある。
 精力を吸い取れる時間を瞬間的に計算しながら、思いのほか早く夢の中の男の姿にたどり着いた。
 地味なスカートとエプロンを身に着けた、胸の小さい女に思いっきり頬っぺたを引っ叩かれている。
 どうやら小胸女——やったぞ!!!——に振られて傷心の不貞寝男のようだ。
 すぐに場面がねじれて切り替わると、自室に戻ってきた。
 ある日以降、部屋のカレンダーにバツ印も丸印もない。きっちり縁切りされたのだろう。
 夢の中だけでなく先方チラ見した部屋にも全く同じカレンダーがかかっていたから、やはり夢と現実の境目が薄いのだと分かる。
 じゃあ、その女とよく似た服装、よく似た角度にクビを傾げ、近寄ったら大丈夫だろう。
 寄っていく。男の中にいるだろうあの人とよく似た感じで。
 夢の中の自分の部屋でも酒浸りになっている男。食い物が何もないので本当に浴びるように飲んでいることが分かる。
 だから、ドアの外にわざわざ出て、
 コンコン
「あー! 留守だ! 今るすなんだよーー!」
 デカい声が聞こえる。ドアは開いていた。
 こういうヤケを起こしている人間は楽でいい。前後不覚だからだ。
 しかし半眠状態な点は気を付けて。
「こ、こんにちは…」
 男はジッとフォニーを見ている。精力が匂い立ってくる。
 おこぼれはまだ吸い取らない。もう少し、本番に入ってから。
「なんだよ」
「お、お手紙です、こ、これ…」
 うぶな振りをして、ラブレター風の封筒を持っていく。こういう小道具は常備している。
 所詮こういうベタなのにこいつらは弱い。さっき振られたばっかりなのに。
「お、おう…」
 たじろいでいる。アンド、ニヤついてもいる。予定通り、この男に男気はなさそうだ。
「あの…」
 上目遣いをしてみる。
 男が唾液を飲み下す。
 また目線を下に降ろす。
 そのままそっと、男の胸に手を当てると、鼓動の早さと、はぁ、はあ…という息遣いが頭上がら響く。
—————もうちょい。こんなうまくいくとはね。
 まとまった純粋な欲望が、男の全身から放たれ始めた。
 ゲヘヘ、とエロいおっさんよろしくの笑い声を出してしまいそうになるをの抑えながら、フォニーは察されない程度に少しずつ吸いだし始める。
 放出させっぱなしで吸い取れないのはもったいない。ぴったりと男の胸板に体を寄せる。
 中肉中背の男の鼓動と湿気、洗濯したのか怪しいのに、匂いすら漂うことのない夢の中の衣服。それでもなぜか酒に汚れている痕跡だけは残していた。
 男の腕がフォニーの背中に回る。
 徐々に腕に力が入る。
「あっ…」
 特に深い意味もなく驚いたような声を上げてみる。
 男のうめき声が聞こえる。
—————これこれ。キたわー!
 絶対フォニーに手を出したくなっているであろう男からさらに噴出した精力の吸い方を上げる。
 前に軍人の男から吸い取った精力と同様、やはり若い男のほうがフォニー好みの味。
 先ほど軍人の男が唾液を飲み下したのと同じく、フォニーも今、この男の胸元で唾液を飲み下していた。
 少しだけ腕の中で身動きすると、男の腕の力がさらに強まる。
—————行ける。
 このあと本番に突入することを確信して、思わず声に出しそうになるのを抑え、顔を上に上げて男の顔を見た。
 男は既に準備していたのか、もう少しでフォニーの唇に唇が降れそうになるところまで、一気に顔を下げ、そして止まった。
 ハァ…ハァ…という息遣いが聞こえるが、なぜか精力の湧き出しが増えていかない。
「どうしたの?」
 そっと、わざと男の顔、というか鼻と唇に声と混じって吐息がかかるように問いかける。
 と同時に、もしここで失敗してフェードアウトコースになったら今そこらへんに余って出てる精力もったいねぇ~。
 モッタイナイ精神を発揮し、一気に吸いつくしたその時、
「わあああああああああああ!!!」
 男は泣きだした。鼻水が同時に垂れているのも分かる。
 声を上げてフォニーの胸に頭を当て、泣きながら縋りついた。
「なんでだよ!! なんで…どうっして!! あんな男がいいんだよ!」
 振られたのではなく、盗られたらしい。
「十歳のときに『大きくなったら結婚しよう』って言ってからずっと誓いあって付き合ってきた仲じゃないか!!!」
 大いに悲しんでいるようだが、残念。精力が多少混ざって出ている。
 男がフォニーの胸に頭をぐりぐりと擦り付けているせいだろう。
 悲嘆に暮れている割に変なところだけ現金なのは男の性なのか。振られて空いた心の隙間をおっぱいでいっぱいにしようという試みだ。
 しかもこの男、ついでにフォニーの服で鼻水をかんでいる。
 さっきまでやる気に満ち溢れていたフォニーだったが、急速に萎えていくのは仕方なかった。
 『子どものころから誓い合ってた』
 そんなもん、大人になったらナイナイのやつじゃないか。
 定型句過ぎて笑う気にもなれずにため息を漏らしたフォニーだが、この男は真剣らしい。
「うぇ…うぐぅ…」
—————なんか言った方がいいだろうか…いや、ここは黙って受け入れる男気を見せよう。
 よしよしと男の頭をなでるが、これなら犬でも撫でていた方がよかった。
 鼻水まみれの服を、クレアのところに行く前に着替えておかねば。
 漏れ出ている精力を一応吸いつくすが、そのことに男自身が気づいていないのは幸い。
 万一収穫がなかった時のために鞄に栄養ドリンクの瓶を入れてきたのだが大正解だった。
 この程度の収穫だと帰り道まで持たない。
 あーあ、と多少気を緩めたところだった。
「ところで、タニアとそっくりな胸の君、誰?」
 いきなり顔を上げた男が、フォニーを見上げる。
 徐々に男の鼻水が収束し始めた。さすがに自分の夢の中なので、時間はかからない。顔回りの粘液は一瞬で鼻の穴に吸い込まれて消え、腫れあがった目も元通り。
 今や顔だけシャキッとしているではないか。
—————やべ。
「さあ、だれでしょ」
 サッと腕からすり抜け、ドアから出て、すぐに閉める。フォニーはドアに全身でもたれ込みながら、ドアノブを抑え込んだ。
 男がドアノブを引いている感触。
 このまま夢を抜けられればいいが、男がその道すがらまでついてきたら、フォニーの存在はばれてしまう。
 変身し、服装を変えても、この鼻水は隠せない。
 じゃあ、庭仕事してた体にするか、それとも。思案する間もドアノブの振動がある。
—————ベータの今までのローブにするか。
 カピカピがいっぱいついていたから、あの見た目なら大丈夫だろう。
 ぴよっと魔力で衣替えすると、あの家に住み始めたころに見慣れていた小汚いローブになった。
 男の鼻水と涙もこれなら。と、フードをかぶって背筋を丸め、挙動不審にする。
 がちゃ
「うわ! きたねぇ!」
 元はお前が出した汁だぞ、と思いながら、ドアを開けた男に会釈をし、そそ…と立ち去る。
 男の足音は聞こえない。これなら逃げれそうだ。
 ベータのローブを着て歩く道すがら、なんだかフォニーはおかしな考えにとらわれだしていた。