ベータの拳には血管が浮かんでいた。土気色の顔に赤みがさしているのもそうで。
怒鳴りつけるのを押さえながら喋りだしているのが分かった。
「お前…」
「な、何よ」
ベータは一度うつむいた。目線の先には床下の通気口があった。
「お前にわかるのか」
「は?」
「生まれつき強くて結果的に魔王という玉座につくことになったら、自分が大事だと思っている人と一緒に酒も飲んではいけないのか」
—————何言ってんの?
「魔王がいることで世界の均衡が保たれている。強いからだ。逆らえない強さがある。魔族は強さが第一だから、弱らないことにはその椅子から降りることはできない。何もかも全てを自分で選んだわけでもないのにだ。周囲の期待もある。変わらず居続けることで魔界も人間界も天界も安定する」
いつもより早口のベータに、唾が飛んでいて汚いなと思う冷静さがフォニーには戻ってきていた。
「年に1回だけでいいから自分の子どもと亡き妻をしのぶ機会を持ちたい、そう思うことは禁忌なのか。
強かったら、ダメなのか。その1回のわがままも許されないのか。
お前のように我知らず守られている者たちは、それすら許さず魔王にもたれかかるのか」
苛立ちは収まらないままで、フォニーは口をはさめないままでいた。
「俺の親だ」
フォニーとすれ違いざま言い放ち、ベータは店の入り口から外に出て行った。
戻ってくるところもここしかないし、ベータの就寝時刻をとっくに過ぎているから出て行ったってほんの一刻のはずだけど。
フォニーにはまだもうしばらく活動時間が残されているので、ダイニングに戻ってデミタスが泣きながら飲んでいた栄養ドリンクを一気飲みした。
毎日飲んでいて泣きそうだが、その効果なのか前よりも体力がついてきた。
基礎体力が高まる栄養ドリンクなんて聞いたことがないが、まあいいか。
ベータが出て行った店の入り口から出るのは追いかけているようで癪。
あえて裏口から出て店の上に飛び上がると、綺麗に元通りになっていることが分かった。
今日のデミタスの立ち回りで家がきしんでしまったから、窓も一通り、開くかどうか試した方がいいかもしれない。
少なくとも強引に開けた店のドアの建具は見たほうがいい。
飛び出て行ったベータの姿は見えない。森に入ったのかもしれない。
—————探した方が…いや、やめとこう。
向こうのほうがこの森には詳しい気もするし、何かに出会ったとて取って食われるはずもない。
不意打ちでもなければ大丈夫だろう。
大丈夫大丈夫と言い聞かせ、家の中に戻るフォニー。デミタスがダメにした瓶を片付け、自分が飲んだ瓶も片付け、デミタスの足がのたうち回った辺りを拭き掃除。
雑巾を絞る間に、辺りが少し白んできているのが分かると、どっと疲れが押し寄せた。
—————アタシ疲れてる。
おもえばこの家にきて、ベータのアイウェアを壊した時以外で休むということを一度もしていない気がする。
どうしたらいいのだろうかと、だらだらしているつもりでも常に考えてしまって、全然休めていない。
着替えて寝る準備が出来たところでベッドにもぐりこんで毛布をかぶる。が、
—————全然寝れない。
こんな疲れてるのに。
ベータが戻ってくる気配もなくどんどん窓の外が明るくなってきて、不安が募る。
大丈夫なのか。一人で森に入っても、背後からいきなり魔物に襲われたりしないか。
明るくなって来ているとはいえ、夜行性の生き物が眠りに入る直前の、気が立っているところに乗り込んでいっているわけで。
ベッドから飛び起き、階下に降り、明るい部屋を見るも、だれもいない。
ため息をついてそのまままた自分の部屋に戻り、うつうつしだしたらまたなんとなく気になって、階下に降り。
五往復したが、やはり気がかり。
朝日の中、寝巻のまま外に出る。屋根の上に座ってぼーっとするが、鳥の声・動物の声・虫の声は聞こえても、人間らしき声はない。
一人言などありえないベータだから、家の中にいたところでフォニーが声を掛けなければ無言。
腹立ちまぎれに森に入っていったのだろうから、普段以上に無言だろう。
叫んだりしていたらそれはそれで面白いが。
ジッと森のほうを見る。
見る。
…見る。
—————動きねぇな。
じりじりと日差しが熱くなってきた。風も出てきて、森の木立が揺らいでる。
家の中に入ろうと、家の中に入り、椅子に座って水を飲みながら腕を組む。
静かすぎ。
一通りの行事ごとが済んだカレンダーのバツを昨日書き足していなかったので、フォニー自らペンを取り、バツを付ける。
インク壺に蓋をしようとしたら、手にインクが付いた。
少し濡らした布巾で手を拭いて、布巾を洗って、また元の椅子に座りなおす。
意識がもうろうとしてきた。
眠いのか疲れているのかよくわからないまま、フォニーはベータの不機嫌そうな顔と、苛立った声色を思い出す。
思い出せば思い出すほど落ち着かないので、残りの水を飲み干して、水のコップを片付けて、また椅子に座る。
ぼーっとするのはそのままで。
さらにしばらくたって、窓から日の光が入り込んだ。
フォニーがいつも起きてくる時と同じ感じになっている。
何で? ともし聞かれても、答えにくいぐらい唐突に体が動いて、勝手にフォニーの部屋に向かっていくような感じだった。
そのまま体を引きずって、ベッドに倒れ込み、瞼を閉じると、ゆっくりと考えが眠気に引きはがされていくのを感じた。
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次にフォニーが目を覚ました時、既に翌日の昼頃だった。
ベータは魔族リハーサルの前と同じように忙しげに動き回っていたが、フォニーと目が合うとプイッとそっぽを向いてしまう。
—————そんなにアタシ悪いの?
フォニーはいつものように面倒になったことを面倒になったと言っただけだし、そこまで親に執着する気持ちもよくわからない。
ベータ自身ですら、『どういうわけか自分が生まれた』みたいな言い方を以前していたから、さほど親のことなど気にしていないと思っていた。
フォニーがめんどくさ~っと言っただけでここまでキレてくる必要はないような。
そんなに怒るなら、フォニーを消しにかかったっていいくらいだろう。
一通り顔合わせしてはいるが、その中にフォニーが消えて困ると考える者などだれもいないのだから。
一晩寝たらだいぶ頭が働くようになり、冷静に考えを巡らせることができるようになった。
睡眠は偉大だ。
とすると、ベータはもしかして全然寝てないのではないだろうか。
ちらちら見えるベータの顔色の悪さがフォニーの不安をあおっていた。
なぜ不安が煽られるのか考えようとするが、いつまでもまとまらない。
だからフォニーは、今は考えるべき時ではないのだと、考えるのをやめにした。
夕方になり、いつもなら食事をとる時間が近づいたころ、ようやくフォニーのいるダイニングに姿を現したが、そそくさとパンと他食事を取ってどこかに行こうとするので、
「ちょっと、待ちなさいよ」
ベータが振り返る。
「今までそんなんしたことないでしょ。飯ぐらいここで済ましていきなさいよ」
ベータが不貞腐れた顔で、
「別にいいだろう。俺の家だ」
その通りなので二の句を継ぎづらいのだが、
「だけどさ。パンくず落ちるし食べこぼすかもしれないし、そのほうがいいでしょ」
なんだか強引な理屈だが、ベータはしぶしぶといった顔でそのまま流し台の脇に自分の食べ物の皿を置き、椅子を引いて着座した。
何としてもダイニングテーブルにフォニーと同席する気はないことの決意の強さを、じっとりとフォニーを直線で見つめるアイウェアの向こう側から感じ取り、フォニーはベータの怒りの大きさを感じた。
「ごめん」