「やっぱあれ、美味しかったなぁ」
さらにその日から三日。ベータが帰ってくる頃になっても、体の動きがスムーズ。栄養ドリンクとは比較にならない。
やはりフォニーはサキュバス。精力からでないと生きる力は補えない。
寧ろ栄養ドリンクが出来たこともそれはそれで画期的ではあるのだが、代替品は代替品だったことが今回よくわかった。
いきおい吸いついた精力の主が軍人だったことでこの後色々面倒になる可能性をこれまでだったら心配していただろう。
あの後、当の軍人が歩いて立ち去るのを窓辺からこっそりと覗いたが、特に不振な様子や追っ手が来る様子はなく。
さらにここ二日も特に来訪者はなかった。だから大っぴらに草むしりもできたのだ。
それに先日のスミスとマルタンの言が本当で、あのフォニーの餌となった男が本当に国軍の伝令なのであれば、いよいよベータがこの国の要人であることが疑いなくなってくる。
そのベータが庇護(?)しているフォニーは大安心なのではなかろうか。
自分で自分に言い訳するフォニー。
思い返して、また納得する。フォニーはとんでもなく飢えていたのだ。
ベータの周りのあれこれにしがみつくのに必死だったから、自身でここまでの飢えだという自覚もなかった。
—————自覚ないまま、死んでてもおかしくなかった?
かもしれない。たぶん栄養ドリンクでは足りない何かが、軍人の精力に含まれていたのだろう。だから美味しいのかもしれない。
ゆるゆると過ごしていたらもうすぐ日が落ちてしまう。部屋の掃除ぐらいしておくかと箒を取り出してパタパタしたものの、あっという間に終わってしまった。
すごく不思議なのだが、あの来訪者がいなくなってここ二日、体は楽なのになんだか物足りなかった。
何が、と言われると、明確。
ベータがいないのだ。
刺激が足りない。折角元気になったのに、手持無沙汰この上ない。
表には出られたものの、国軍の伝令という男に見つかったのだから街に出ると見つかる可能性がある。面が割れているからだ。
家の周りをプラプラするのであれば問題はないがそれ以上の遠出はできない。
ため息とともにしゃがみこみ、テーブルの下の蓋を開け、魔界を見下ろす。
枠の中の火山は相変わらず活動的で、実はどこか別の場所から動く絵だけ借りてきたようにも見え。
だからこそ、床下に少し溜まったここ一周間のホコリが気になって、箒を取り出し掃き集める。
チリトリを持ってこようと思ったが、もう面倒になったので穴の中に掃き落した。火山の上だし微々たるものだ。大丈夫。
—————ふたを閉めて、掃除完了っと。
終わってしまった。ダイニングの椅子に腰かけると、静まり返って寂しさもひとしお。
—————寂しさ??
何故?
そもそもここはフォニーの家ではない。落ち着かないのが当たり前だ。何故落ち着かないことがこんなに不自然なのだろう。
足音が聞こえ、フォニーのとがった耳の先は自然、ピクリと震えた。
荷物を下ろす音もする。店の前だ。
そのままドアが開くと、見慣れたローブが目に入り、土汚れと汗汚れでほんのり辺りが匂う。
—————あー、帰ってきちゃったか。
「おかえり~」
なおざりなセリフが自分の口から出ていることに、フォニーは安心した。
荷物を中に運び入れながらドアを後ろ手で閉めるベータに近づくと、案の定。服になんの汁かよくわからないものがついてカピカピになっている。
客先なのに風呂も洗濯もしていないのがよくわかり、安定の残念感。
フォニーは先ほどまで感じていた違和感の代わりに、しっくりくる『ガッカリ』がピタリと埋まり、謎の落ち着きとワクワクが元通り姿を現したのに気づいていた。
なんでかを自分で探る前に、ベータがフォニーを訝し気に見つめている。
「なによ」
「いや」
ベータは挙動不審なまま黙して荷物を引きずりながら、店の棚を眺めまわし、さらに眉間にしわを寄せた。
後で話しないと、と思うフォニーをよそに、荷物をバラバラにほぐしていく。
盗っ散らかった辺りを片付けにかかるが、フォニーの出る幕はない。
「アタシ部屋もどってるわ~」
階段の上をふわふわと飛びながら上階にうつるフォニーを、ベータはとうとう睨みつけるようになっていた。
フォニーは自室に戻って首を傾げた。
—————何をそんなに苛立って?
家の中に入ったときは別に普通だったのに。
—————普通?? あれ、あたし…。
フォニーはまたも気づいた。
この短期間で、ベータの普通とそうでない状態がわかるようになっていることに。
ベッド脇のもう用済みになった軟膏は、その表面が水分を失い、固まりかけている。
瞼をぬぐうのに使った布は洗って干してあった。窓際で夕日を透かす布にしみこんだ軟膏の色は落ちなかったが、もう乾ききっている。
一つずつ畳みながら呆然とした。
前はあんなに何考えてるか謎だったベータなのに、今は苛立っているかもしれないとすぐに気づけた。
ベータが変わったのかもしれない。いままでよりも顔に出るようになったのかも。
クレアにでも聞いてみるといいか。
たたみ終わった布と軟膏の乳鉢を並べ、他に階下に戻すものがないことを確認し。
でも階下ではまだバタバタと物音が聞こえているので、戻すものを持って降りづらい。
ぽふりとベッドに腰を下ろすと、ガタタンッと何か落としたような音がした。
覗いてみたいような気もするが、この荷物を持っていきたいし、でも、覗くだけでもいいか、いや、それをするのは…。
—————てか、なんでアタシが遠慮してんの?
なんか起こってる臭い家主に、遠慮しないといけないよーなことは何一つない。
来客の応対はしたし、他に変な人は来なかったし、泥棒も入らなかったし。つまみ食いもできたし人殺しなんてしてないし。
むしろ来客のこと、床下の穴のこと、海賊船のことetc…喋らせないといけないことがあるのはフォニーのほうだ。
言い聞かせるも、自分の腰が思った以上に重く、ベッドから動かせないどころか、体はもうベッドに横たわりたいと言っているようだった。
魔力が切れているからではないことは、フォニー自身わかっている。
気乗りしないのだ。
ほんの一周間程度顔を合わせていなかっただけなのに、このままベータと話をする気にならない。
次第にフォニーはベータに対してどんな顔をしていいのか、よくわからなくなってきた。
帰ってきてすぐに顔を見た時、ほんのついさっきは、すごくしっくり来ていたのに。
「むいいっ」
よくわからない音を呟きながら寝返りを打っても、今までのように瞼が重くならない。
今のフォニーは体力的には満たされているから。さっきまで、気持ちも満たされていたはずなのに。
—————満たされていた?? ベータが帰ってきて??
勢いよく起き上がるも、シーンとしている。
階下のかたずけが終わったらしい。
フォニーはそのまま立ち上がり、ドアを開けて、今度は階段を駆け下りた。落ち着かなかったから。
「あのさ!」
ベータが仏頂面——いつもなんだけど、今のは特に、だと思う——でフォニーを見つめる。
フォニーはたじろぎ、何を言っていいのか分からなくなり、
「お、おかえり」
「さっき聞いた」
「う…ただいまぐらい言ったっていいでしょ」
「俺の家だ」
そうね、と小さくつぶやいたフォニーに、ベータは切り替えした。
「誰か来たのか?」
「え? うん」
「男か」
「うん。そお。なんでわかったの?」
キョトンとしたフォニーに、ベータが一気に不機嫌になった。