領主館へようこそ 59

「大丈夫」
 ベータは離れの小屋の窓の外にある岩場から手を放した。
「そっか」
 窓を閉めると、崖の岩肌が窓枠に囲まれた絵のようだ。
 夕食から一晩明けて、今、ジョットとベータは離れの小屋にいた。
 外にはユン。
 さっきお湯を火にかけていった。
 台所にはティーセット一式。しばらくしたら戻ってくるだろう。
 一方のベータはかがんで床下に触れている。
 外から入る鳥の声が愛らしいが、それと打って変わったこの室内の神妙な空気。
 ここに、あの時、3人で隠した。
 それはこの国の一部の人間が血眼になって探している。
 あの時の声が今も耳元で蘇る。
『おい、ジョット!ベータ!チリカ!おまえら一体なんのつもりだ!』
 そのころはここに小屋なんてなくて、更地で、奥底にあるのだろう魔石の魔力で満ち満ちた崖だけだった。
 あの窓の奥。
 ベータの力技だ。
 触ろうが何をしようが『岩場があることになっている』。
 そのさらに奥に、今もあの人が眠っている。
 結界を張り、小屋を建て、領主からこの地を譲り受け、村とこの領地を盛り立ててここまでやってきた。
 あの人に次の居場所を用意すること。
 それがあの人を追われる立場の人間にした、別の意味で同じように血眼になって探されている生き物として、できることのすべてだった。
 それをジョットは自分の望みをかなえるための理屈にしようとしている極悪人なわけだが。
─────僕が極悪人なのは今更だ。
「…い、おい!」
「あ、ごめん、何?」
「済んだ」
「ん」
 ジーからのつぶやきが来ないということは屋敷も特に問題なし。
 なら、ひと段落でいいだろう。
 道具を片付けだしたタイミングでお湯とティーセットを取りにユンが戻ってきた。
 ユンがお湯をポットに注いで、他の菓子類を出したあたりでほぼ片付けは終わり。
 外に先に用意していたテーブルのほうへとそれを持って出るユンの後をついていく形で、二人は小屋を出た。
 テーブルに着く。
 のどかだった。
 一通り済んで安心したこともあり、気分はいっそう晴れた。
「三人の調子もここも大丈夫ってことなら、後は別館予定地だけだね」
「今日は少し寝かせないといけないから。
 明日から二日で終わらせられるはず」
「留守家は大丈夫?
 同居人さんは?」
「…一日二日延長なら大丈夫だろう」
「ほんとに?」
「…ぅん」
 前とは違って作業が済んでいる。
 ジョットは意を決した。
「ねぇ、最初からそうかなと思ってたんだけどさ、その目隠し、もしかして同居人さんとなんかあったの?
 いつもの眼鏡壊れたっていってたじゃん」
 ベータは口元をもごもごさせている。
「向こうが面白半分で勝手に自分に掛けようとした。
 振り払ったところで壊れたのだ。
 そのあと…向こうは半日寝込んでいた…が、落ち着いたようだったので留守番に置いてきた」
 ベータは落ち着いた顔をしてズズッと音を立てて紅茶を啜ったが、よほど焦ったのだろう。
 あの眼鏡は内側に魔法陣を書き込んである特殊性。
 人間なら目が焼き切れてしまう。
「そうか。魔族って言ってたもんね。でもさ、ぶっちゃけベータ、」
 ベータの家の中なんて危険だらけ。
 そんなに事故を起こしたくないのなら、根本解決策がある。
「その子、使い魔にしちゃったほうが手っ取り早いんじゃない?
 なんでも命令できるし逆らえないから、やらないでほしいことは絶対できなくなるよ?
 ベータの力だったらずっとそのほうが楽でしょ?」
「必要がない。意思疎通が取れるわけだしな。
 それに命令と言っても、魔族だって意思のある生き物だ。
 相手を尊重する必要がありやっていい限度というものがある。
 過度なスキンシップはやはりセクハラだ」
 天を仰ぎながらジョットは、『セクハラ』というキーワードを耳にした瞬間、ユンの裸体を重ねてしまった自分を恥じた。
「…まあそりゃそうか」
 雇い主として、これではいけない。
 自分がムッツリスケベの一員であることを否定できなくなってしまうし。
 意を決してテーブルに着く二人に顔を向けるように体を動かす。
 が、目に飛び込んできたのは真っ赤になったベータの顔だった。
 そして何かに気づいたらしいユン。
 ベータがおかしい。
「ああああああくまでも、しっ使役する側としてのだな! 節度というものがある! あるのだ! 俺が使い魔にしたら力関係的に確かに、いいいい、い言いなり…俺の言いなりになる、なるのなのだがな!! それはそれで…だがな!!」
─────なんだこれ。
「魔法使いというのはだな、つつつうじょう、通常は、暴力をふるったり、その…明らかに使い魔の身に何かある、そそういう行為はしてはならんというもので!! 一般論という奴だ! スキンシップというものだな、必要な時がななっ…ないわけでは…なぃ…いんだが!!」
 口をはさむ間もなくベータはそのまま謎の言動をまくしたてていく。
「ごご強引に、むむ無理強いなどはやややはり良く無くてな! 使い魔にする側のだな、責任などなどなどなどがある、そういうことだ! こちらが、こっこちらばかりだだいぶ、ししし神経を使う!! 向こうにはそうしたら…使い魔にしたらな、きょきょ、拒否権がな、なななくなってしまうのだ!! その辺りがその、面倒であるしな!! そそそそそおういった関係では決してけっけけけ決してない! ないのだ!」
 息継ぎの合間ができた、そのタイミングで、
「ベータ、」
 ベータはおかしい速度でジョットの方を向いて、何か言い訳したしたげに震えた。
 顔色が落ち着いてきたが、トリガーとなったユンはといえば、視線をサッとジョットからそらしてうつむいている。
 冷静な顔。
 これって、
─────二人で、内緒話?
 ベータは心が読めるわけで、多分今さっきそうしたわけで、それで…それってつまり。
「…うん、まあ、いいや」
 二人ともしれっとしている。
─────僕が領主なのに。
 この地の主なのにこの疎外感。
 ベータは落ち着いたのにしょげかえった様子で紅茶に延々砂糖を突っ込んでいるし、ユンは冷静そのもので召使い然とした態度に戻っている。
 なぜかユンにはそんなに腹は立たなかった。
 ベータに対しては軽く殺意が沸いていたのにだ。
─────ユンさんの何かを読んだ。
─────僕にわからないことを。
─────何を読んだんだ、何を。
─────僕が知らない事なんだろ。
 ユンがジョットの様子に中空を見上げていることなど気が付きもせず、苛立ちも隠せず、その正体にも、全く気がいっていなかった。
 でも、
─────抑える気にならないのは初めてだ。
 ジョットは苛立ちと驚きを引きずりながら、ドライフルーツをつまんで口に放り込んだ。