普段では考えられない速度の馬車。
昔見た伝令の早馬に近く、まともに走っているのが奇跡なぐらい。
でも時刻は予定よりも小一時間遅れている。
—————何かあった。
ユンが玄関のドアを開けると、3人とも小走りでこちらに掛けてきた。
御者の彼はジーを呼びに行ったのか、馬車を止めたまま厩のほうに走っていった。
「コーウィッヂ様を…」
そう発したキシアスを筆頭に三人の顔は青ざめている。
何よりジェレミーの右腕に巻かれた、少し赤いものが滲んだ包帯。
3人を招き入れてダイニングまで連れて行って座らせるや否や、ユンはコーウィッヂの元へ駆けつけようと階段を上りだす。
コーウィッヂはすでに部屋から出てきていた。
3人の帰りが遅れていたことに気を揉んでいたからだろうが、ユンを見るとより一層表情を険しくした。
階段を駆け下りてくる。
「ジェレミー様が右腕を負傷しています。
包帯を巻いていて応急処置は済んでいるものと思いますが、念のため救急用具を持ってきます」
「よろしく!」
いつもながらの俊足で下り切ったコーウィッヂの後ろ姿に声をかけるユンにコーウィッヂの声も大きくなっていた。
ユンは救急用具を手に取ってそのままダイニングに向かうと、今度はコーウィッヂが人前には出ないようにとしていたジーを大声で呼びつけている。
「小屋からあの護符とか、あるやつ一式持ってきて」
ジーはそのままダイニングをスルーして全力で掛けていく。
代わりにユンがそこに足を踏み入れた時、まさに本題の話をしていた。
「よくいるキメラの一種と思います」
キシアスの淡々とした声とテトの震えそうな表情が、疎いユンに嫌が応に状況をつかみ取らせていった。
ユンがジェレミーの包帯をほどくと、致命傷では決してないが確実に痕に残るだろう深さの爪痕数本あった。
「熊のような風貌で、皮膚はトカゲとよく似た鱗に覆われていて…頭はどっちつかずでした。
見ての通りジェレミーが軽く爪先を食らいましたが、傷跡と経過を見る限り毒はなさそうです。
火や毒を吐くなどという他の攻撃要素もなかった。
獣よりも相応に強い力で攻撃してくるのと、鱗に覆われているために防御力が高く、通常の護衛向けの剣では歯が立たない。
ジェレミーの剣は真っ二つでしたからあの倍の太さが必要でしょう。
今回観察された特徴すべてが、かつてここで報告に上がったものと一致しています。
だとすると今上がった以上の攻撃・防御そのものに関する特徴点はありません。
ただ、外被が保護色で森の中だと見つけにくいのと、あの手のキメラの行動特性として臆病な性格がかなり厄介です。
基本的に隠れて待ち伏せしてくる。
体格の大きい男性や魔力波動が強い人間だと、まず向こうが先に見つけてその戦法に出てくるでしょう。
逆に人里に現れる可能性は低いです。
お祭りの準備真っ盛りの村にはまず向かわないでしょう。
出現位置は…」
「村より領主館に近いのも不幸中の幸いか…。
でも、魔除けが切れると血の匂いをたどってここにくる可能性がありますね」
「危険を持ち込んでしまって面目ない」
ユンが包帯を巻きなおしてい右腕からコーウィッヂに目を向けたジェレミーは歯噛みしていた。
「いえ。賢明なご判断でした。
往来でとどまっていると発見されるのも早かったかもしれないですし、村人とすれ違ったりしたら話がおかしな方向に広がりかねなかった。
ここならその心配はありません。事前にそうなる可能性も伺っていますし。
むしろ私の感想としては他のお二人が無傷というのが、よくぞと称賛したいくらいですよ」
「キシアスさんのご判断が速かったですし、テトさんの反応も良かったので。
自分が隠れた魔物から軽く食らったあとすぐに逃げ出せたんですよ」
そういいながらも悔しそうな表情を浮かべるジェレミー。
「ジェレミー、今は次のことを考えたほうがいいから」
キシアスが冷静に制するのを横目に、テトは震える手で広げた地図を仕舞っている。
「持ってきた魔物除けと目隠しを撒いて来ているので、今すぐ追ってくることはありません。
ただし大型の魔物に対しての効果は1日程度です。
魔法使いを呼びたいのですが、可能ですか」
コーウィッヂが一気に険しい様相になる。
「可能ですが、この村には魔法使いはいないんです。
というか、この辺り一帯が凄く少なくて」
多分ベータのことだろう。
たしか前に来てもらったときは1週間くらいだったと記憶している。
「間に合わないかもしれないということですね…ここの隣街は討伐の経験値の低い軍だし、今から呼んで2日ってとこか…」
キシアスは歯噛みした。
「さっきジー…召使いに、備品として常備している護符なんかを一式取りに行かせました」
全員がコーウィッヂに注目する。
「大型の魔物にも対応できますが、やはり護符にすぎません。退治は無理で。
魔除けもあることはありますよ。
あと、武器も、その折れた剣よりは大振りのものが」
「ジェレミー、持てるか?」
「多分」
右腕でスプーンを持っていたジェレミーは当然右利き、今日食らった傷は右腕にあった。
「薬草なんかはありますか?」
「常備されているものが」
「この辺かしら?」
チリカが持ってきた瓶入りの乾燥薬草。
ユンがチリカに教えていない場所にあるもの。
おそらくコーウィッヂから以前より聞き知っていたのだろう。
キシアスが助かったという顔になる。
「まさに。使わせてください」
コーウィッヂはその様子に構わず、キシアスに問い直した。
「案としてはどのような?」
一瞬キシアスが渋い顔になる。
「隣町の軍を呼んでください。
魔法使いの要請も、事後のことがありますから無駄にはなりません。今すぐにしてください。
今日この後、僕らで出現した地帯と領主館の間で人が通りそうな境界に当たる部分にこの魔除けを撒いてきて、そのあとは軍が来るまで森にしばらく残ります。
時間稼ぎですが、ないよりましでしょう」
ユンは思わずこぼした。
「それだと…」
キシアス達の身に何かあったら。
当のキシアスは笑っていた。
明らかに作られた、仕事の大人の笑みだった。
「大丈夫ですよ。
曲がりなりにもプロですから」
救急箱の道具やユンに指示して持ってこさせた布地といったありものでテキパキと可能な限りの魔除けを作っていく彼ら。
怯えを全く隠すことができていないテトだって手元が狂わないのは、仕事としてプライドを持っているからだろう。
じゃあ一瞬ではあるものの、自分が教えていない薬棚から瓶を持ってきたチリカにいら立ちを覚えたユンは…。
自分の人間の小ささにほとほと嫌気がさす。
だから、やるべき軽作業に集中した。
手元や棚を見て、周りの人の顔に目を配らなかった。
コーウィッヂが静かに一人、心ここにあらずでうなづいていたことに、その時気が付くことはとても出来なかった。