その日の作業が終わって領主館の調理場でグリーンたまねぎを刻みながら、ユンは村の人たちを思い出していた。
村長は、
『だってよ、領主様だぜ?』
ケイジさんとか、他の人達は、
『コーウィッヂ様はいい人よね』
『手ぇ上げたり罵声あびせたりなんか絶対ないしね』
リアさんでさえ。
『まあ、いいんじゃん?』
それだけなのだ。
「今日は何かなぁ~」
当のコーウィッヂは最近習慣的に、夕暮れ時になるとつまみ食いにやってくるようになっていた。
煮つけたリコレアを小皿にとって差し出すと、大きな手でさっとつまんだ。
「あちちっ」
「フォークあるのに」
「ハフハフ…んグっ…つまんだほうがちょっと背徳感あっておいしい気がする」
満足気なところからすると、味付けはOKのようだ。
「ありがと」
ユンが小さく頭を下げるとそのままコーウィッヂは立ち去っていく。
ユンはその後ろ姿の主に対するユン自身を振り返った。
─────私と、村長さんや、ケイジさんや、リアさん。みんな別にかわらないじゃないか。
二の次だったじゃないか、コーウィッヂのことなんて。
飯の種が最初だったじゃないか。
でもコーウィッヂはそれでいいのだろうか。
─────いい人で、優しくて、人に理不尽に怒ったりなんて絶対しない人だけど。
─────前に魔法使いの人が来た時みたいに、ふくれたり、感情的になったりもする人で。
─────頼れそうだけど、どっか抜けてるというか、愛嬌あるっていうか。
そういうコーウィッヂを見ている人はいるんだろうか。
みどりちゃんは? コビは? シロヒゲは?
理解できるのだろうか。
ジーはどうだろう。
見ているかもしれない。
それだけ…?
今日までにユンが見聞きした話からすれば、村の人たちの生活の礎すべてをコーウィッヂが作ったといっても過言ではない。
それなのにあんなに和気あいあいとした中にいながら、コーウィッヂは隔絶された遠くにいるようだった。
圧倒的に一人なのだ。
エトワ領はほんとうに小さな領地で、今日の今日まで他にも村があると勝手に思っていたユンは、この村の外はポツンポツンと離れたところに道具小屋が単体であるだけだと聞いてびっくりした。
静かな田舎の村の、さらに奥のこの領主館に、一人。
そこに、あの優しい人を一人にしていていいんだろうか。
この屋敷にやってくる馬車の中でユンが思った『大丈夫なんだろうか』は今、ベクトルと大きさを変えていた。
いつか変な人に騙されやしないだろうか。
心に隙間ができやしないだろうか。
なぜかユンは祖父が、そして祖母が死んだ時を思い出した。
自然なことだったけれど悲しかった。
その人がいた、そのことを考え、その不在を思うと空っぽになったような気持ちだった。
ユンには家だけで、お金も何もなかったから悪い人なんて寄って来ようもなかったのは幸いだった。けれど。
コーウィッヂがいなくなった時、そう思う誰かはいるだろうか。
夜になりベッドに横たわっても、それは続いた。
徘徊音がないから、みどりちゃんは今日は夜の掃除はなしにしたのだろう。
この雨の中ここまで登って領主館に立ち入ろうという人間もいなかろうが、普段毎日のように聞いている音がないのもあって目が冴えた。
ユンは起き上がった。
雨音は激しくなっていくが、湿気を吸うみどりちゃんとは違い、人間のユンは喉が渇いていた。
いつもの場所に手を伸ばすと水差しがいやに軽い。
手元にいつも夜持ってきている、朝起き抜けに飲む用の水を今日は忘れていたようだ。
─────降りるか。
はしたないのは承知の上で、ユンは手持無沙汰と乾きを優先した。
ゆっくりと寝巻の上にストールを羽織り、ランタンに火をつける。
ドアをゆっくり開いて、階段を下りた。
そういえば夜のお屋敷徘徊は初めてだ。
雨音以外の音がないそこをゆっくりと降りる。
そっと足音を立てないように、ランタンを落とさないように、ゆっくりと一人、真っ暗な中ダイニングに向かう。
途中コビとすれ違う。
「おつかれ」
小声でささやくとコビは掃除をつづけた。
ダイニングのドアを、音をさせないようにそっと開ける。
ランタンで中を照らした。
「えっ」
見慣れた人影はぽかんと口をあけ、抑えて、しかしいつものように声を上げた。
「…どしたの?」
「コーウィッヂ様こそ」
暗闇の中一人、まるで三時のおやつのように一人、ティーセットと茶菓子をほおばっている。
「…眠れなくて、お茶でも飲もうかと」
気落ちしたようにうなだれている。
「…私も、です…」
このまま水だけもらって立ち去っても良かった。
雇い主だし、むしろそうすべきだ。
「わ、私も、お茶でも、いただこうかと」
後で考えると夜中に部屋を出て屋敷内を徘徊したうえで主人の休息にそのまま乱入するという召使い的大NG行動なのだが、ユンにとってはその時ごく自然だった。
コーウィッヂの面差しが驚きの色に変わり、そしていつもとは違う甘やかな笑みに。
「お菓子もあるよ」
コーウィッヂのはす向かいに静かに向かい、ランタンを置くと、コーウィッヂの白い頬はテーブルからの炎の光に暖かく照らされた。
自分で勝手にポットを出して、自分用に湯をわかす。
ここの調理場の湯沸かしの仕組みが組み込み式の魔法によるもので一番助かっているのはユンだが、いつも以上にその有難みをかみしめた。
紅茶の準備が整うと、それを自分で持ち出し、コーウィッヂの斜向かいに掛ける。
勤め始めのころはもっと恐れ多かったのに、今は躊躇がない。
他のどこかでお勤めを今後することがあっても、これに慣れてしまったユンはうっかり不敬をしかねないと常々思っていた。
今まさにしている行動が不敬であることは、脳裏をよぎりすらしないのだから。
そんなユンの顔を見てコーウィッヂは可笑しそうだ。
「下からの光ってホラーっぽいね」
「そうでしょうか。
それより、コーウィッヂ様ランタンもなしにどうやって?」
「僕ね、昔から夜目が利くほうなの。
これぐらいなら明かりなしで全然ダイジョブ」
よく知っている自分の部屋の中にいてさえ、ユンはテーブルの角に腰をぶつけたりするというのに。
この雨で月明かりもないダイニングを『これぐらい』と評するコーウィッヂの目はフクロウ、いや猫。
一人なのに、愛嬌があって、基本穏やかで優しいけど、怒ることもなくはない。
猫とおなじで実は寂しがりやだったら完璧だ。
ユンは紅茶をカップに注いだ。
そのさなか、急に不安になった。
だって『います』といいつつ実のところ話題もなく、雇い主だし、当たり障りないプライベートの話をしだすわけにも行かず。
「中央から来るっていう来賓、大丈夫なんですか?」
切り出した瞬間、コーウィッヂがじぃっとこちらを見てくるのでいたたまれなくなり、ユンは多少後悔した。