─────そもそも高級馬車って噂には聞いたことあったんだけど…。
まさか自分がこの目にする日が来ようとは。
そして乗ることになろうとは。
ユンはだた食い入るように領主ジョットがそれに乗りこむ姿を見つめた。
だって乗り方がわからない。
見よう見まねで屋根に頭をぶつけないようにかがんで乗り込み、手前の椅子の、できるだけ領主と離れるように端っこのほうに腰かけると同時に、御者がドアを閉めた。
ユンはドアにピッタリとくっついた。
「あー、そっか。
そこまで端に引っ付いて寄らなくても大丈夫。
ほら、その上にハンドルあるでしょ?
揺れた時にそのハンドルにつかまれる程度に壁際に寄って座るんだよ。
あんまり寄りすぎるとむしろハンドルに頭ぶつけたりするから気を付けて」
察してくれた。
「ありがとうございます」
ユンの中で自己紹介内容と見た目のギャップの不思議が蘇る。
10代半ばでこうもうまいことアシストできるものだろうか。
ユンが考えた可能性のうち4番目のやつが薄まった。
ゆっくりと発進する人用の高級馬車。
道に轍があるせいでガタつくのはしょうがないけれど、ここに来るまでずっと荷馬車に乗ってきたユンにとっては天上の乗り物。
窓から見える畑は荷馬車の隙間から見えるそれと違って縁どられた一枚の絵のようだ。
しかも奉公先にあったそれよりずっと綺麗。
「ユンさん」
ご主人様・旦那様・領主さん・ジョットくん・コーウィッヂさん。
ユンの頭の中では呼称がごちゃ混ぜになってユンの中にこだましていたけれど、
「よろしくお願いします、コーウィッヂ様」
不審人物にも礼儀としてセーフな呼称をチョイスして瞬間的に返事ができる。
奉公人キャリア10年越えのなせる業だ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
コーウィッヂはユンに丁寧にあいさつを返した。
「隣村の宿に一泊するだろうなと思ってたんだ。
それで、こっちから迎えに行くって話、宿のご主人にしてたはずだったんだけど、どうも連絡がうまくいってなかったんだね。
結果オーライで行き違いにならなくてよかったよ」
初対面が往来のどまんなかだったのは、近くまで行くという荷馬車にユンが相乗りし、その荷馬車の主がこの村の人間で世間話になって一時停車したからだった。
結果あの無駄に劇的な迷場面が誕生したわけだが、本当の意味で無駄にならなくてよかった。
「いえ、お心遣いありがとうございます」
「感謝するのは早いかもよ?
もしかしたらこんなところまで迎えに来るなんて怪しい人かもしれないし」
自分から怪しい人宣言する怪しい人なんていなかろう。
ユンはコーウィッヂ──ユンの中でこう呼ぶのが一番当たり障りない気がした──がまっとうな人に見え、視界の端によぎりだした木々が美しく見えた。
と、車体が多少斜めになる。
「この先の丘の上なんだ。
上り坂とカーブが続くから気を付けてね」
ユンは頭上のハンドルを握った。
馬車に乗る時の察しはこの前振りだったかと合点するユンに、コーウィッヂは条件などの話をしだした。
「落ちついてからってのもあるけど、気になるだろうし」
ぎゅっとハンドルを握っているが、カーブはそこまで急なものでもない。
「よろしくお願いします」
「いままであんまり外の人とのやり取りはしてないって聞いてるから、最初のうちは家の中の仕事だけやっててもらうつもり。
料理とか洗濯とか片付けとか。
でもゆくゆくは家に来る来客のちょっとした応対とかはしてほしいと思ってるんだ」
事前にあのおっさんに聞いたのと全く変わらない。
雇われだしたら急に要求が高くなる雇い主もいるらしいと聞くから有難い限りだ。
「なにせ人手が足りてないもんだから。
あと、もう気づいてると思うけど、場所が辺鄙なんだよね。
身の回りのものでほしいものがあるときは業者についでに持ってきてもらうから。
それと、休みに村の中心とかさっき泊ってた街とかに出たいってときは言って。
じいに馬車出してもらうから」
じい、ということは執事的な方がいらっしゃるのだろうか。
ユンは紳士然としたテンプレを浮かべつつ、
「あまり外出する習慣がないものでよくわからないのですが、お気遣いありがとうございます。
必要なことがありましたら、恐縮ですがよろしくお願いします」
「そんなかしこまらなくったっていいよ~」
「い、いえ…」
そんなわけにはいくまいとユンは恐縮しきりだ。
「ここまでのとこ、質問ある?」
「い、いえ…」
「またまたぁ~。
いいよ? 遠慮しなくって」
来るなら来い、という少年らしいドヤ顔のコーウィッヂ。
むしろ質問しないほうが失礼になりそうだと、ユンはひねり出した。
「じい、とはどんなお方で?」
「今御者やってくれてる人のことだよ。
昔から色々やってくれるんだけど、今は御者以外だと庭の手入れとか家の補修とか全般的に。
申し訳ないくらい働いてくれてるよ」
『じい』なんて呼ばれる年齢でこんな長距離馬を乗りこなせる人は見たことがない。
馬車に乗り込んだときに挨拶一つしなかったことが悔やまれた。
「他は?」
「いえ、特には」
「じゃ、あとは屋敷についてからで」
ユンは黙ってコクリとうなづく。
コーウィッヂはおそらく見慣れているだろう窓の外に目をやっていた。
その横顔を見るに、今さらながら気づいたことがある。
─────結構な美少年なんじゃなかろうか。
サラサラと流れる短めの黒髪は馬車の窓から入る風でパラリとその白い顔にかかっている。
セルリアンブルーの瞳はまたどこまでも深く沈み込める湖のような艶めきで、漆黒の長いまつげにそれが縁どられているさま。
赤に近いような鮮やかなピンクの唇が薄く開いているのは何とも蠱惑的だ。
もし女の子だったら、幼いめの顔立ちの『お、なかなかかわいい子だなぁ』レベルで終わりだったかもしれない。
でも。
折り目正しく糊付けされた白いシャツは、まっ平に並んだボタンでその膨らみのない体を強調する。
一番上までボタンをぴっちり止められた高めの襟が細い首筋を縁どって。
その裾をプレスされた黒いズボンにINしているせいで、大人にちょっとだけ近づいた少年の細い腰つきも同じように際立った。
ありえないくらいの妖しい魅力。
小柄なのもまずく、ちょっと体格のいいヘンタイさんとか出現したら軽々抱えて連れていけそうだ。
お屋敷にはボディーガードとか警備周りの人はいるんだろうか。
というかいないとおかしい。こんな人が主なら。
ユンは先ほど馬車の窓から見た外の景色とは違う、幻覚を見せられているようなビジョンを生み出す雇い主の横顔を凝視しながら悶々としたが、そのコーウィッヂがこちらを向き始めたため、慌てて自分の膝に目を落とした。
そして代わりに目に飛び込んできた、ちょっと、いやだいぶ年期が入った落ちないシミと毛羽立ち・毛玉が目立つ茶色いスカートは、制服支給という条件を思い出させてくれた。
ついでに自分のチリチリパーマで櫛を通すなどかなわない赤毛、そばかすだらけで日焼けした顔、茶色い平凡な目という三点セットも。
ユンは、いまさら気にすることじゃないと開き直ろうとしたが、顔を上げてコーウィッヂのほうを直視する気になんとなくなれないまま時間だけ過ぎて行った。
「もうすぐだよ」
コーウィッヂの声に反射的に全身の姿勢を整えると、さらに空想にしか存在しないような光景が広がっていた。