ドルの家のあるあの林の途中にその病院はあった。
といっても大病院では全くない。
町の小さな診療所に、一晩二晩なら我慢できる程度のベッドがあるだけに見えた。
「ここに長期入院は無理なんじゃない?」
気になって聞くと、
「明日明後日で家に帰れるはずだから」
「でも家っていっても…」
あのベッド・あの住まいだ。
休めるようには見えなかった。
「あそこじゃなくて、祖母の家は別にあるんだ」
「え?」
てっきり一緒に住んで、身の回りのお世話やら何やらをドルがやっているのかと思っていた。
「いろいろあってね」
ドルは建物を眺めて思い出すような顔でしみじみしている。
「血の繋がりはない、ということでしたな」
グィーガヌス刑事はドルに向かって話しかけた。
「え?」
ドルは頷き、口をつぐんで浸ってたたずんでいる。
相対的に、メイド長は馬車から手早く見舞いの品を取り出していた。
病室に行くまでの間中、病院中の人間がデイジー一行を注視しているのがわかる。
金持ちだからか、余所者だからか、とにかくもの珍しいのだろう。
「じゃあ…」
ドルがドアをノックし、そのままそれを開けた。
3つならんだベッドのうち2つは空いている。
一番窓際だった。
老婦人はそこからゆっくりと震える肘で半分起き上がった状態を支えていた。
「あー、もーいいから!」
ドルが駆け寄る。
お客様が、とそのご婦人は口にしているようだ。
咎めるようなドルの言葉にはしかし、咎める口調は含まれておらず、代わりにねぎらいと気遣いが垣間見える。
デイジーはお見舞いに来たというのに、いつも家にいる時以上に疎外感を覚え始めていた。
メイド長は病院に見舞の手続きしにだろう、駆け足で部屋から出て行った。
「お嬢様、こちらへ」
ドルがデイジーに視線と誰も座っていないその椅子を示す。
デイジーは誰に言われるともなく、老婦人の灰色の目を見つめた。
もう死期が近いのを悟ったような、でもまだ生気がはっきりと宿った瞳孔もまた、デイジーを見つめ返している。
老婦人は唇が震えている。
何か言おうとしているようだ。
それはそうだろう。
身分的には、先に挨拶するのはこの老婦人であってしかるべきだから。
しかしデイジーは待たなかった。
「お初にお目にかかります。
デイジー・アドルノと申します」
老婦人は瞼を少しだけ大きく広げ、あぁ、と吐息を漏らすような声を上げた。
眉を悲しげにひそめている。
「お加減がよくないところに、お見舞いに来させていただいているのはこちらですから」
デイジーはにっこりとほほ笑んだ。
したくてもできないことがあるとわかっているから。
自分にしても、喋れないときはつらかった。
老婦人がホッと息をつき、目じりが下がる。
「…のしぃ…てた…」
小さく枯れた声を聞くため、デイジーは椅子に腰かける。
顔を老婦人に近づけようとしたとき、ドルが給水器を持ってきた。
震える唇をすぼめてその吸い口を加えるしぐさ。
自分が臥せることはあっても、臥せった人間を見たことがなく、また年を取った人間を見たこともないデイジーは自分が震えそうになった。
怖かった。
「ソマリと申します」
腰かけたデイジーには聞き取れる声になったが、メイド長とヤマダには聞き取れないのではないだろうか。
「本日は私めのわがままにお付き合いいただき、ありがとうございます」
デイジーはかぶりを振った。
「お会いできて光栄ですわ」
灰色の瞳にデイジーの顔が映った。
それは老婦人が見ているデイジーなのだろうか。
「…ちゃまが…」
「え?」
「坊ちゃまがね」
―――――ぼっちゃま??
聞きなれない文字が脳裏にちらつくも、聞き返せる状況ではない。
「いつも、お嬢様お嬢様と」
『坊ちゃま』とは誰のことだ。
お嬢様とは誰?
もしかしてこれが噂に聞く『痴呆症』という奴だろうか。
老いると記憶があいまいになるというし。
「前はずーっと、カリカリしてたんですよ」
『坊ちゃま』の正体は他の話から推測するしかないのか。
「疲れた顔してたんですの」
老婦人の言葉の端々から、召使いをしていただけある教養を感じる。
『坊ちゃま』はもしかしたら、そのころつかえていた人のことなのかもしれない。
遠い過去が今とつながって、それで幸せなのならもうデイジーはその『お嬢様』を装うしかない。
「最近、すごく楽しそうで。
何かあったのか聞いても、すぐには教えてくださらないんです。
でもね。ちょっとすると、おっしゃるんです。
『今日、お嬢様が』って」
ふふっと笑って、老婦人はデイジーから視線を外した。
老婦人にとっては遠い過去が映っているのだろう、その先をちらりと見やる。
デイジーの椅子のすぐ隣に立つドルは老婦人のその嬉しそうな笑みを見つめいている。
ドルにはこの会話が聞こえているのだろうか。
デイジーの後ろに控えているヤマダは、頭の高さ的に厳しいかもしれない。
斜め後ろにいるメイド長、そしてグィーガヌス刑事――病床の老婆を過酷な言で追及したりしないだけの分別はあったらしい――には無理だろう。
「本当に、ありがぁ…ッゴホッゴフッ」
無言でドルがかがんで水を差し出す。
阿吽の呼吸だった。
いちいちデイジーは胸をえぐられるようだった。
「ご無理なさらないでください」
もうこれは見舞いを切り上げ、そうそうに帰って休んでいただいたほうがいいのでは。
デイジーがメイド長に目配せしようとしたのを、老婦人の左腕が押しとどめるようにその間に割って入った。
流石は元召使いということか。
デイジーの動きの意図を的確にくみ取った老婦人の灰色の瞳は、瞬き一つせずにデイジーを見据えている。
かすれてはいないが、先ほどよりも小さな声。
デイジーは老婦人の口元に耳を寄せた。
「…っちゃまは…」
『坊ちゃま』の続きらしい。
召使いからここまで思われる『坊ちゃま』。
『坊ちゃま』としてはボンボン冥利に尽きるだろうが、ここまで尽くしてくれている召使いに見舞い一つしない薄情な『坊ちゃま』に、デイジーは不快感を抱き始めていた。
「坊ちゃまは、それはもう大変な苦労をなさってきました。
私めにできることは…でも…もうして差し上げられることも…時間もほとんどございません」
これは勉強とは違う。
難しい教科書の数式でも、古文でもない。
内容も別にそう不可思議なことや突飛なことを語っているわけではない。
それなのに、その紡がれる言葉たち一言一句が、デイジーの体の奥、深いところに次第に沈み込んでいった。
「このようなことを、お嬢様のようなお方に申し上げるのは勘違いも甚だしいのは存じております。
私めは…」
デイジーは顔を少し上げ、老婦人から見えるようなところで大きくかぶりを振った。
見た老婦人はほほ笑んだ。
ドルを見ていたのと同じような、その柔らかい視線はうるんでいるように見えた。
それらは先ほどデイジーの中に入り込んだ重たい言葉に灯をともし、心から温めるようだった。
デイジーはこれまで誰からも、こんな風に笑ってもらえたことがなかった。
浸っているその間、老婦人は、口をまた、パクパクと動かしている。
慌ててまた耳を老婦人の口元に。
「ドル坊ちゃまをよろしくお願いします」