ドルは教科書を机に置いた。
まるで落とすようだった。
額を大きな骨ばった右手で覆い、前髪を上に掻きあげる。
「いや…あーっと…」
そのまま天井を仰ぎ見て、両手をあわせるように自分の鼻と口を隠した。
デイジーは待った。
ドルの次の言葉を待った。
待った。
そして、
「休も」
ドルはつぶやきながら崩れるように椅子に腰を落とした。
そのままデイジーの方をじと~っと眺めている。
「ねえデイジー。
デイジーってあの家の人達には結構な評判の悪さだけど、実は相当色々気付いてるよね」
苦笑いするドルは初めて見た。
またデイジー自身に関する周囲からの評判の悪さはやっぱりドルの耳にも届いているんだと気づかされた。
それでもなお、疑問が残った。
「何が?」
デイジーがつっけんどんに切り返したのは、デイジーが気付いていることなど、本当に何一つ無いからだ。
ただ、知っているだけ。
皆が自分に関心がないこと。
人間として扱われているのではなく、『お嬢様』としてパッケージングされたもの――鼻持ちならない子供、多分そのまま大人になるだろう子供――を自分に当て嵌め、それに対処しているのが実情だということを。
誰もがデイジーに忠告をしたり、気遣ったりしている。
全て、仕事としてだった。
「またまた、しらばっくれちゃって」
軽口を叩いているドルの話に乗っかるのもありなのだが、それはやめた方がいいのだろう。
なぜかといえば、今ドルは気が立っているから。
なぜかといえば、ドルのおばあさまの容態が優れないから。
デイジーはドルのおばあさまと、そして自分自分を思った。
体というままならないものに遮られ、瞼を閉じざるを得なくなり、眠りという暗闇に落るしかなくなる弱い自分。
ドルのおばあさまと違い、自分がそうなった時は今のドルのように心配してくれる人が誰もいない。
いままでずっとそうだった。
そして何より、ドルもその心配してくれない周りの人の一人だ。
デイジーはドルのお祖母様が羨しかった。
これ以上話を掘り下げたくなかった。
「箒とモップの話なら、どこにあるのか全く察しは付いてないわ。
なんとかしないと、どうにもできないんじゃない?」
折角の計画が水の泡でしょうよ、と話の筋道を曲げると、ドルもこれ幸いと思ったのかもしれない。
「壁と岩の隙間に、小屋の外から柄だけ挟んで、水を弾くように蝋引きした布を掛けて置いてあるよ。
部屋の中に置いておくと邪魔だし、普段から収納場所はアソコにしてるんだ。
グィーガヌス刑事も見てる。
両方くっつけて動きにくい感じになってるから、いまんとこ大丈夫」
屋外か。
確かに窓は突っ返て開けられそうも無かったけれど、無理矢理箒とモップの柄だけなら無理矢理挟めないことはなさそうだった。
「布だけ? 雨降ったら多少は濡れちゃったりするかも?」
「多少はね」
箒とモップに意思があるのなら、今の話で益々ヤマダが魔力波動を感じたのがあの魔導具達だった可能性が高くなってしまったのではないか。
ちょっと動いてガタついたりしたら?
デイジーが口をもごもごさせていると、
「道具は風邪ひいたりはしないから」
ドルは勘違いしてくれたのかもしれない。
それか、今はそういう、体調の方に考えがブレやすくなっているとか。
「デイジーは大丈夫?」
「え?」
「今日、熱とかない?
頭痛かったり、しんどかったりしない?
無理することはないからね」
やっぱり今日のドルはおかしい。
「ないから授業してほしいって言ってるのよ?
何年この体引きずってると思ってるのよ」
旅行前に外壁の調査で倒れかかったことなどなどには蓋をして。
「そっか」
言いながらドルはデイジーの方を見ているというのに、その視線は全くデイジーに至っていない。
「うん…」
目の前の光景からどこかにほかのところに行こうとしている。
自宅? 祖母のところ? それとも、
―――――暗闇?
デイジーが自ら閉じていくその慣れ親しんだ心象風景。
思い浮かぶと同時に、デイジーの体はひとりでに動いた。
立ち上がる。
ドルは自動的にデイジーの顔を見上げた。
そのドルの頬を両手で挟む。
ひんやりしていた。
「大丈夫」
ドルの茶色にちょっとだけ青が混ざった目の真ん中にある真っ黒なところが、ぶわっと大きくなる。
唇が震えている。
「大丈夫だから」
デイジーはもう一度繰り返した。
瞬き一つしないドルの血の気が無かった顔に、多少なりとも赤みがさしたろうか。
はじかれたようにドルの頬から両手を離したデイジーは、さっきドルが腰かけたのと同じようにストンと椅子に座り込んだ。
―――――わたし、いま、なにをしたの?
ままならない体と思ったことは何度も何度もあった。
でも思っていないように動いたことは無かった。
というより、思ったと動いたが同じものだったというか。
デイジーが呆然としていたのがどのくらいだったのかは分からない。
でもその間に、ドルは平常運転に近づいたようだ。
目元がちょっと上向き、口の端も、クイッと上に上がったかと思うと、それをデイジーの顔の方にずずいっと寄せて一言。
「デイジーったら、ダ・イ・タ・ン☆」
人差し指でお返しとばかりにデイジーの額をつんっとつつく。
然程の力でもないのに軽く頭が後ろに仰け反る。
カクンと前に頭を向けてまた前を向くと、椅子に腰掛けるドルは真っ直ぐデイジーを見ていた。
歯を見せるにとどめて声をあげまいとしているが、涙目で震えており、もうあと一歩で腹の底から大笑いが聞こえてもおかしくない。
それを見てデイジーもするすると平常運転に戻っていた。
ドルはその後普通に授業を終えてホテルをでる時は今朝のようなおかしなこともなく、いつもの授業後だった。
グィーガヌス刑事だけはいつもよりもだいぶテンション高めだ。
好調なのに顔色がいつも以上に悪く見えたのは、ここ数日外で聞き込みなどもして一気に日焼けしたからだったらしい。
人相とは不都合なものだ。
デイジーとて好き好んでこの体になったわけではない。
グィーガヌス刑事にしてもそうだろう。
皆今の持ち物がある。
その中で、できることをするしかない。
―――――わたし、できること、あるのかしら?
デイジーは、自分は弱いと思っていた。
屋敷の中、自分の暗がりの中では息ができるけれど、外に出たら何もできない。
味方になる誰かがいるわけでもない。
心配してくれる誰かもいない。
そのくせ医者と薬と他人がいないと生きて行くのも無理になる。
そんなふうに誰かによりかかるだけで生きているならいっそ死んだ方が寧ろいいんじゃないかと思ったこともある。
だから自分は弱いんだと。
でも今日、デイジーの自惚れでなければ。
ドルはもしかしてデイジーによって、何かを少しだけ変えることができたのかもしれない。
ただ一瞬のことだったかもしれないけれど。