昼と夜のデイジー 21

ドルの行動はやはり早かった。
「お嬢様」
メイド長は翌朝、朝食後に話をしにデイジーの部屋へとやってきた。
「あの方のおっしゃることはもっともですもの。
お嬢様はこのところ学業への姿勢が真摯になってきたと。
でも、過ぎたるは及ばざるが如しです。
ここで一息入れるべきですわ。
私、旦那様と奥様に相談いたしますから」
メイド長はドルに騙されきっている。
だめだよメイド長、もっと人を疑わないと、という言葉がデイジーの脳内で浮かんで消えた。
その日やってきたドルは、当然だという様子で旅行先ですることを話し出した。
「いつにするかは滞在の予定がはっきりしてからだね。
簡単に言えば、箒とモップがそろってる前でべたべたすればいいんだよ。
だから宿泊場所から出る必要はないし、部屋を出る必要もないんだ。
しかもその状況なら、今と大差ないよね。
二人っきりっていっても、家庭教師と教え子の関係が周囲に向けては保たれる。だから大ジョブってことさ」
デイジーはついつい怪訝な顔になっていたのだろう。ドルはにんまりと笑い返した。
「やっぱ心配?」
ため息はどうしても口をついて出る。
「あたりまえでしょ。
何でそこまで体張る必要があるのかまだぜんっぜん納得できてないんだから」
「うん、まあそうだよねぇ。
だって僕もここまで具体化したのは昨日の夜だしね。
でも体張る価値はあると思うな。
少なくとも僕にはだけどね」
「やっぱ私にメリットがあんまりないんでないの?」
「いや、そんなことは…ない…と、思うよ」
ドルが言いよどむなんて怪しいことこの上ない。
またしても怪訝な顔になった私は、今度はドルに言い返される前に自分から反撃することにした。
「だってやましいこと満載っていう感じよ、今のドル」
「うん、否定はしないよ」
小さくドルが、『少なくとも二つはね』と続けたのは、生憎デイジーの耳には入らなかった。
「でも両親が、っていうか少なくとも父親が家に帰ってくるのは三日後だからね。
それまではどう転ぶかわかんないじゃない。
それに私の息抜きっていう名目なんでしょう?
だったらカテキョはいらないんじゃないの?」
「ふふふ。そこはメイド長に関しては説得済み。
一日おきに、時間もいつもの三割ってことになってるから」
つくづく用意がいいものだと感心してしまった。
「いやあ、われながら名案だなぁ~。
旅先なら召使さんの人数は激減だし。
これでデイジーとべたべたする免罪符ができたようなもんだよ」
「えっ、ちょっ、」
思わず声が出た。
が、違うぞと自分に言い聞かせる。
ドルの発言は、好き好んで自分とべたべたしたいと言っているわけではなく、自分とべたべたして箒とモップというすすけた迷惑カップルをどうにかできることに対して言っているのだ。
─────そうなのだ。そうなのさっ!
一人で勝手にうなずく。
ドルもまた一人で勝手にうなずいていた。
おそらく第三者がいたのならば、まさにベストカップルのように見えたかもしれない。
「あ、いけない。
ひとつデイジーが絶対にぜったいに準備しとかないといけないものがあったんだった」
顔を上げたドルに合わせて、デイジーもまた顔を上げる。
お互い椅子に座っていても、デイジーがドルの顔を見るためにはそこそこ首を使わねばならない。
見上げた先には真剣な表情のドルがいる。
「な、なに?」
「それは、」
一息ついて、そして。
「勝負下…てうわっ、びっくりするじゃないかぁ」
パーンという小気味良い音はしなかった。
デイジーが生まれて初めて繰り出した平手打ちは失敗に終わった。
ドルの反射神経が一枚上手で、軽くのけぞってよけられてしまったのだ。
「ばか!」
デイジーは立ち上がり、部屋のドアへと進んだ。
「おーい! どこ行くのー! 悪かったってばー!」
ドルはひたすらへらへらしている。
─────分かってるわ。私の顔がまっかっかだってことぐらい。
「お手洗いよ! ばか!」
デイジーは、『ばか』以外の罵り言葉が浮かばない程度に血が上っていた。
もちろんお手洗いなど行かず、廊下を二、三度無駄に往復して部屋に戻る予定だった。
階段の前まで来たところで予定が狂った。
階下の会話が聞こえてきたのだ。
それも召使同士の会話ではない。
デイジーは耳を傾けた。
「…えっ…それは一体…」
聞き取りにくい。足音を立てないように、少しずつ階を下って行く。
徐々に大きくはっきりと聞こえるようになってきたその声は、男の声とメイド長のようだった。
「そうですか。
いえ、ただこのお屋敷が有名なからくり屋敷だと伺いましてね。
もしかしたらと思ったのですが…。
ああ、どなたか屋敷のからくりに詳しい方はいらっしゃいますか?」
「それでしたらお嬢様が一番…ですが、今は」
「これがもし本当に行われているとしたら、犯罪なのですよ」
メイド長が口ごもっているのが分かった。
どの道部屋に呼びに来るのだから出て行けばいいと考えたデイジーは、潜めていた足音を響かせた。
「どうしたの?」
男は五十絡みで、落ち窪んだ目と魔女のような鷲鼻だった。
「お嬢様! どうしたのです?」
「お手洗いから戻る途中で話し声が聞こえてきて、いつもとなんだか違う様子だったから降りてきたのよ」
メイド長が紹介する前に、男が話し出した。
「初めまして。私は警務省非魔法犯罪取締課第三部門所属のグーレ・グィーガヌスと申します」
メイド長が右手に持っている紙とほぼ同じものを渡された。
名刺である。
彼の所属部署と連絡先が書いてあった。
「刑事さんでしたか。
私、アドルノ家長女デイジー・アドルノと申します。
大変失礼ですが、えと…グィーガヌスさんはなぜここに足をお運びになったのです?」
確かに父親は荒稼ぎしているし、どうやら犯罪すれすれのことをやったことも過去には一、二度あったらしいと召使が噂していた。
だがどうもこの刑事の様子は違う。
直感的に思ったデイジーは、とっさに口をついて言葉を出していた。
横ではメイド長がデイジーの唐突かつ年齢と性別を考えない行動に眉をひそめている。
そんなメイド長を軽く制したグィーガヌスは、深刻な声色だった。
「実は今、学術の世界で論文の違法取引が問題になっているのですよ。
今回はその件で伺ったのです」
─────お手洗いの時間ではすまなくなりそう。
デイジーはドルを待たせていることを心に留めながらも、頭を切り替えた。