新説 六界探訪譚 9.閑話休題ー5

教室で昼飯を食い終わって暫く。
この100m走が終わってくれればあとはもうなんてことない。
色々なのも、何もかも。なんてことない。そうだ。
暑さでへばりそうになりながら順番待ち。
この待機場所に降り注ぐ日光はジリジリと肌を焼いていく。
ゴールしたその先の日陰で多少は楽になるだろう。
ピーーーッ!
ホイッスルでスタートラインまで進んで並び、屈む。
「位置について」
クラウチングスタートーーそういう名前だってこの前保健体育の授業でやったーーの姿勢になるべく手の親指と人差し指を開いてスタートラインと並行に地面につける。
ぶっちゃけ今年、俺が出る回は注目されない。
「よーい」
前を向く。ゴールがはっきりと見える。
パーン!
スローモーションの景色。
俺の左右には誰もいない。
真っ直ぐ開けた視界と近くなる白いテープ。
遠くなる左右の足音。
歓声が消え。
俺の足は、俺の意識の一寸後から付いてくる。
もっと早く動けばいいのに。
もっともっと。
思うのと同じくらい、全部が早ければいいのに。
もう少し。
あと、少し。
ゴールテープが腹にひっかかって左右にはためく。
足の回転を落としていくと、それは地面にぱたっと落ちた。
振り返ると他の4人が五月雨にゴールインしている真っ最中。
この映像、写真に残せたらいいのに。
夏のワンシーンっぽく皆やりきった感じの表情は、『#青春』でタグをつけてもいいくらいで。
俺が覚えとく以外ないのを残念に思いながら日陰にある1番の旗の後ろに並ぶと、風が運ぶ砂が汗ばんだ肌に張り付いた。
体操座りして一息つく。
他の奴らも同じ横列で一息付いていた。
これにて今年の体育祭は一件落着。
ていうか、出来レースなのだ。
佐藤みたいな対抗馬がいないため、どうあがいても俺より前は取れないだろうという見込みのもと、他のクラスは基本、クラスで一番足が遅いやつらをあてがっていた。
おかげで俺が足を止めて振り返るというくらいの時間差ができたわけで。そして楽できるわけで。
だから俺史上でも、今年の体育祭は飛び抜けて存在感が薄かった。
他の奴には絶対言えないけど。
クラスの持ち場ではこの2つ後の種目である騎馬戦出場者たちが集い出してる模様。
その中で矢島がそわそわしてるのが見える。
チビだとそれだけで上に載せられて大変だなぁ。
成長期ありがとう。
俺、これからも背ぇ伸びるかな?
あの家に済むには不便な高さではあるんだけど、もうちょっとあった方が様になると思う。
親父は抜かしたけど、理想としてはコウダなんだよなぁ。もちろん、身長だけね。
退場の合図で立ち上がる。
隊列の隙間から次の、女子2年100m出場者がスタート地点の最前列に並んでるのが見えた。
その中に武藤さんがいる。
すっと立つあの姿。
ギクリとさせられる。否応無しだ。
バレエで鍛えた体は首筋まできれいに一直線になって。
そっか、これにも出るんだっけ。
他の男子に続いてそそくさと退場門を出るのと同時に女子が位置についた。
門を出た男子の群れは、速やかにバラバラになって隙間が広がり、さっきよりもトラックの中がよく見える様になる。
丁度パーンと音が鳴った。
一直線だった最前列はへの字に。
武藤さんの手足は男子よりゆっくり、でもリーチを生かして確実に他の女子より早めに前に進んでいる。
『中』でのジャンプの助走も、そんな感じだったな。
違う。
今は違うんだ。
浮かんだあのときの景色ーー光と液体と醜態と白い部屋ーーを振り払う。
喉の奥に残る苦味。
それでも今グラウンド上にいる武藤さんの行く末を見守った。
への字は台形になり、武藤さんともう一人が並ぶ。
その二人だけがより前に、もっと前に出て行き。
熱っぽい歓声のなか、そのままほぼ同着でゴールラインを切った。
どっちだ?
武藤さんはロングヘアのポニーテールを揺らし、息を切らせてゆっくり歩き。
そして振り返った。
精悍な横顔は、同着になった相手をキッと睨みつける。
きれいだった。
きれいな夕日をみるのと同じように、それはきれいだった。
そうか。
喉の奥の苦味が薄まっていく。
あのときはああだった。
いまは、どこかおなじかもしれないけど、どこかはちがった。
だからこうなった。
そういうこともある。
そういうことだねコウダ。
『中』の武藤さんと佐藤と弐藤さんが何を意味するのか。
それは俺の中で無くなりはしない暗い影だ。
でも、それがなにかはともかく。
武藤さんはそれだけの人じゃない。
佐藤も、安藤さんも、川藤さんだって。
急に体育祭を自ら極力無心に過ごしていたように思いはじめ、なんとなく辺りを見回す。
俺にとってどうってことない彼等は、どうってことない今日またはどうってことある今日を各々やってるんだろう。
自分の持ち場に戻る手前、保護者席から声がした。
「すげージャン、相羽ク〜ン!」
「おめでとう」
四月一日のお父さんと、たぶん矢島のお父さんーーだって全然雰囲気違うのにすげぇソックリだもん。身長まで…ーーだった。
あわわ…取り敢えず会釈。
向こうは合わせて会釈して、そのままパパ友トークに戻っていった。
この咄嗟のあいさつらへんをやれるようになったのは、じいちゃんと安藤の爺と川藤さんのおかげ。
にしてもびっくりした〜。
四月一日のお父さんは一応面識あるけど一応程度。矢島のお父さんなんて初対面だ。
さささっと席に戻り、足を伸ばすのもなんだか居心地が悪い気がしてちっちゃくちっちゃく腕で膝を抱え込んだ。
四月一日と俺の間にいる何人かは騎馬戦に出るので誰もおらず、四月一日が笑っているのがよく見える。
四月一日は長い筋肉質な腕をぐいーんと伸ばして俺の二の腕を人差し指でツンツン。
こそばゆくって益々丸まり、腕の上からチラリと視線を向けると、だだっと近寄ってくる。
で、体操座りからの体当たり。
転がりそうになってすのこに手をつくと、不可抗力で固まっていた体が解れて足も延びた。
「よっす」
ニヤけた四月一日からの謎の合言葉に、こっちも体当たりで応戦する。
四月一日の前に座る向井にすのこから振動が伝わったのだろう。
怪訝な顔を俺達二人に向けたあとさっきまでの俺みたいなちっちゃい体操座り。
トラックから女子が居なくなり、グラウンドに入場した男子が二手に別れて広がる。
矢島が乗っかった3人組を見つけ俺が指さすと、四月一日共々ヤジを飛ばした。
しかしそのヤジは後ろの女の人の声援でかき消された。