新説 六界探訪譚 8.第四界ー12

いつの間にか何人もの声が重なるようになった読経の声は謳うように響き。
今まで壁面を巡っていた形たちに、どこかで見た縦書きの漢字の羅列が加わった。
それらは床と天井にも進出していく。
部屋をぐるぐると幾重にも囲むように動き、そのまま武藤さんの体を侵食するように投影されて。
模様を投影してる光源は多分上?
降り注ぐようなそれは、この低い横穴からは決して見えない遥か先から届いてるんだろうか。
俺達がしゃがみ込んでる白く変わりばえのない廊下とは対照的。
重なり合う声と光と人体の動き。
見えないりリズムに支配され、むにゅりと跳ね、回り、捻れ。
指先からなにから全身の末端まで何かで満たされた身体は、力強さに満ち満ちていた。
何者かによって動かされているように踊り狂い。
飛び立ちそして地面に沈み込む肉の塊に、何の意味が。
これは武藤さんなのか?
これが、武藤さんなのか?
無表情に、時に緩く開いた口から涎すらも垂れているその姿。
その液体に加えて否応なしに流れてて飛び散る汗に光が反射してキラキラと輝く。
カラフルな文字が這い回ることで分かってしまうのは、体が度々醜悪な形態に歪んでいるということ。
呼吸が辛い。
そうなるくらいの嫌悪感が、この光景にはあった。
これまで武藤さんの『中』に出て来た芸術って奴だって、多数派は暗くて気持ち悪いのばっかだったのに。
それが全部紛い物に見えるくらいの圧倒的な気分の悪さ。
これ、武藤さんじゃないんじゃないか?
ていうか、人間でさえないんじゃないか?
…犬。
壊れた犬。
思い立ったとき、気分の悪さは胃袋を下からえぐり込むような塊になって再び俺を襲った。
…俺、最悪。
武藤さんは人間だし。
そもそも生き物は電子基板じゃない。壊れるってなんだ。
俺の自己嫌悪をよそに、また武藤さんはくわっと目と口を開いた。
…もう見るしかないから見るしかない気持ちになってきたな。
できるだけ無関心に。呆然と。
そういやこれ、どっかで見た顔だ。
どこで見たんだっけ?
つい最近。確か絵だったと思う。
怖い絵だった。
どれだ?
…そうだ。あれだ。
愕然とした。
この前矢島に見せてもらったやつ。
踊る武藤さんの時折何かに恐怖するように見開く瞳は、あのパラパラ漫画のラストシーンの耳なし邦一と何故かとても良く似ていた。
怖い。
気持ち悪さが恐怖に転じだしたその時だった。
がちゃっ
部屋のドアが開く。
その瞬間。
音と光が全て止まった。
ドアが開いて出来た黒い空間。
人が入ってくる。
…お前かよ。
姿を表した佐藤はその小脇に四角い板状のものを抱えていた。
武藤さんは部屋の端っこにいたけれど、その場で直立して佐藤のほうを見ている。
佐藤はゆっくりと武藤さんには見向きもせずに部屋の真ん中を歩いていくけれど、武藤さんは体の正面を、常に佐藤のほうに向けていた。
こつっこつっこつっこつっ
中学生が履くことなんてそうそうないだろう革靴の踵の音。
真っ直ぐに黒い椅子に向かい、クルリと反転して腰をかける。
椅子が壊れるなんてコント的なオチもなく、大股開き。
あの椅子によくあんな姿勢で座れるもんだ。
関心しているうちに、武藤さんは佐藤の正面に来ていた。
いま気付いたように武藤さんに視線を向けた佐藤は、もったいぶって手に持った板を武藤さんのほうに向け、それを足の間の椅子の上に載せる。
板には写真みたいな弐藤さんの肖像。
普段はあまり見せない、少なくとも俺は見たことがない笑顔。
背景はラメが入ったみたいにキラキラしてて。
佐藤はその上に顎を載せ、武藤さんを嘲笑うように口角を上げた。
「見てるよ」
武藤さんはそう言い放った佐藤を見てはいなかった。
弐藤さんの肖像画の目をじっと見つめ、震えていた。
「こっちに来なよ」
佐藤の声に吸い寄せられるように近付いた武藤さんはその場で膝をついた。
弐藤さんの絵からは目を離さない。
「地球からじゃ手が届かないね」
佐藤は言う前も言ってからも相変わらず微笑んでいる。
武藤さんがそっとその絵の頬に手を添えてなぞる。
次第に顔が絵にくっつきそうなほど近づいていく。
ゆっくり。
でも確実に。
うわ。
なんだろ。
どきどきする。
「だめ」
え?
佐藤の声によって、武藤さんの鼻と弐藤さんの絵は接触寸前で止まった。
武藤さんはまた震えている様に見えた。
「踊ってよ」
その無慈悲にも思える命令で、武藤さんは無言で直ぐ様立ち上がった。
「見てるから」
一瞬視線を絵に向け、武藤さんを見つめ直して呟く。
絵の中の弐藤さんは微笑んでいる。
武藤さんが高く右足を掲げ、体とぴったり一直線にしたのに遅れること暫し。
音楽が始まる。
ちゃーっちゃららっちゃっ
俺ももう題名を覚えたあの曲は、部屋中に染み渡った。
ちゃらちゃっちゃーちゃらちゃっちゃっ
『威風堂々』だった。
武藤さんはくるりと上げた足を回転させて飛び上がった。
タイトルと掛け離れてる。
ぬるっと溶けるように地面にへばりついて、のたうち。
立ち上がり、また苦悩するように丸まっては飛び立ち。
ところどころでカクンと糸がキレた人形のようになるところといい。
熊のような、牛のような、蜥蜴のような、烏のような野性的な動きといい。
さっきのお経をBGMにしていたときと、ほとんど変わらなかった。
両手を広げて回転し、弐藤さんの肖像画を見つめるその時だけ、わずかにその視線から人の臭いがする。
その対比は、殆どを占める獣のような気味の悪い動きを一層もの悲しくした。
これ、だめだ。
見ちゃダメなやつだ。
絶対ダメなやつだ。
何でそう思うのかもよく分からない。
でも、これはいけない。
俺みたいな部外者が見ていいもんじゃない。
そう思っているのに、目を逸らすことができない。
佐藤は相変わらず微笑んでいる。
弐藤さんのくったくのない笑みとは全く違う笑みで。
武藤さんにか?
俺のこと笑ってるんじゃないよな。
どうにかしたくて、上唇を下の歯で噛んだ。
その力で、すっと上顎ごと頭を下に下げて、意識を逸らすことができるような気がした。
そうできたのか自分で頭を下げたのか分からないけど、目線は足元に向けることができた。
「…い、おい!」
「えっ!?」
コウダに強く肩を叩かれて初めて気付いた。
「出るから!」
…そうか。もうそんな経ったんだ。
チラリと覗いた細い横穴の先で、武藤さんは軽やかに飛び立ち、そして崩れ落ちていった。
それは『中』でちょっと前に見たものとリンクした。
ゲートに足をツッコミ、曇り空を見上げ。
電車が奏でるガタンガタンという騒音が耳に響く。
ホッとした。
出てこれたこと以上に、これ以上見ないで済んだことに。
コウダはずっと持っていた額縁ーー今やそれが絵だと分かるーーを改めてしげしげと眺めている。
武藤さんの後ろ姿は道の向こうに小さくなって。
やがて見えなくなった。
車のエンジン音。まばらに行き交う人。笑い声。
直後、出る前に思っていた気持ちが一気にぶり返す。
そこにコウダがいた。
だから、コウダに軽くぶつけた。