シャッ、シャッ シャカシャカ
アトリエ全体に、紙と木炭のこすれる音が響く。
せっかく手じかにゼタというモデルがいるのだからと、気分転換に描き始めたデッサンが、既に十枚を超えていた。
だが、気に入ったものは一つも描けていなかった。
頭の中では、噂を流した見知らぬ者とジルコーニの顔がぐるぐる回っていた。この気分を変えるために、久々に絵を描きだしたのに、全くの逆効果だ。
描かれているゼタは、そんなケイトクの気持ちを知ってか知らずか、ただ黙々と本を読んでいた。
──―――やっぱだめだ。
ケイトクは思い立ったように立ち上がり、ドアを見やるが、またそのまま腰をおろし、一つ、大きなため息をついた。
「ゼタ、報告、まだ?」
「そのうち来ますから。今は待ちの一手ですよ」
ゼタはケイトクに笑いかけた。
バロッケリエールが怪しいと分かってすぐに、内密に調査をしはじめた。今はまだ六日目。そんなにすぐに分かるはずがなかった。
ただ、最近当主の様子がおかしい、ということは、ごく一部で噂が立っていた。
どうおかしいかはよく分からないし、それが何か関係しているのか、と聞かれれば、それも良く分からない。つまり、まだ謎だらけというわけだ。
「やっぱり、部屋に戻る」
ケイトクがアトリエのドアを出てすぐのことだった。
「あ、いたいた。ケイトク」
「ジル…」
──―――いけないいけない。ポーカーフェイスだって。
思わず顔がほころびかけるのを抑える。
「ちょおっと話したいことがあって来たんだけど、今、いいか?」
「ん、いい…けど…」
私室へと歩く間、ジルコーニは、あるメイドがかわいいだの、また女に振られただのをぐだぐだ話し、本題に入らなかった。
ケイトクは、ジルコーニが何らかの情報を握っていると確信した。
それと同時に、ジルの横顔が目に入ってくる。今にも顔が火照りだすのではないかと、はらはらしていた。
──―――だめだだめだ。全部こっちが片付いてからだ。
バタン
部屋のドアを閉じると、ケイトク、ゼタ、ジルコーニの三人は向かい合った。
「…今朝、デミアンのおっちゃんに会って来たんだが…」
ケイトクが聞き返す。
「デミアンって、デミアン・バロッケリエール…バロッケリエールの当主のことか?」
「ああ。俺んち、曲がりなりにも旧貴族だからな。時たま行くんだ。向こうが来ることは滅多にないけど」
「それで?」
「やばいよ。かなり。精神的に、壊れそうだった」
鎮痛な面持ちで、ジルコーニは説明しだした。
何でも、夜中に叫び声を上げて飛び起きたり、いきなりメイドを怒鳴りつけたりしたらしい。最近では、召使の半数が辞め、残り半数は、デミアンの”介護”をしている状態なのだそうだ。
後継ぎ息子は隣国に旅行中で、もうしばらくは連絡も難しい。召使たちは弱音をはいていた。
「あんなんじゃなかったんだけどな。俺が行ったときは、とりわけ酷かったようだ。メイドさんが泣きながらフォローしてたよ」
ジルコーニが俯いた。
密偵たちでは、内部の状況までは掴めない。ジルコーニの情報は、かなり有用なものだった。
「…ありがと、ジル。で、ジルはそのこと、どう思ってるの?」
ケイトクがジルコーニを見上げる。もう劣等感は感じなかった。
「お前の噂を流したのは、あそこじゃないかと思ってんだ、俺は。ただ、当主じゃない。あの精神状態じゃ、無理ってもんだ。今旅行中の、息子が怪しいな」
ケイトク自身が思ったことと、ほぼ一致していた。だが、一つ、ケイトクは不信に思った。それをジルコーニには聞けなかった。
「ま、俺が話したいことってやつは、それだけ」
「そうか…」
「ケイトク、俺としてはもうちょっとお前の力になってやりたいとこなんだけどな。あんな噂が立っちまった今、前みたく頻繁にお前んとこに行くわけにはいかないんだ。俺がいなくても、さみしがるなよ~」
ひらひらと手を振って出て行くジルコーニの後姿を見て、いつも通りのジルコーニであることに、嬉しさと寂しさがこみ上げる。そして。
「ゼタ、僕はバロッケリエール当主に会いに行くぞ」
ケイトクが不信に思った点は、当主がいつそういう状態になったかだ。ジルコーニは、昔から顔を見知っている相手の変貌振りで、動揺していたため、聞き出せなかったのだろう、と思った。
だが、これはかなり重要な点だ。発症時期がはっきりしているのなら、何か大きな原因があるからだ。
ケイトクはゼタを見ている。
ゼタはケイトクの目を見て、何を言っても無駄だと悟った。