カラス元帥とその妻 40

 軍から送られてきた通知は、刺された直後のものらしく、状況説明は曖昧。
 まず、軍は視察七件目の地区で宿泊中だったこと。
 カジムは刺された時点で、宿の割り当てられた部屋、もちろん個室にいたこと。
 ナイフで複数箇所刺されたこと。
 犯人はすぐにつかまったこと。
 そして、出血が多かったこと。
 …それだけ。
 大丈夫だって思いたい。けど。
 『複数箇所』『出血多量』『自室で刺され』『凶器はナイフ』『宿泊中で』
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。何もできない。無力。私は無力。
 『ああ、お気の毒に』『まだ結婚して間もないのに』『ほら、あのお姫様』『一人ぼっち』『故人は身寄りもなく』『お金はどうする』『恩給』『元帥殿が死んで得したんじゃないのか』『政略結婚』『愛の無い家庭』『冷たい女』『未亡人』『哀れな、カラス元帥』
 そんなことないよね。ないのかな。そうなの? そうだよ。
 便りはまだ? まだ届かないの?
 ああ、何これ。もう頭がくちゃくちゃ。
 午前中に手紙が届いてから、何も手がつかない。
 洗濯物を干そうとして何度か地面に落とした。
 掃除をしようとして、壷を一つ割った。
「奥様、今日はゆっくりなさってください。落ち着かないのは分かりますが」
 マイケルが壷を片付けながら言った。
 その通りだって分かってる。でも、何もしないでいるとどんどん不安になって押しつぶされちゃいそう。だから、何かしなくちゃ。
 
 
 
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 夕食後、眠れない夜を迎えることになった。
 予想はしてたけど、ワイン飲めばちょっとは変わるかな。望み薄だって分かってるけど。分かってるんだけど。
 あ、しまった。もうなくなってたんだっけ。昨日で。
 いつもは無くなったことなかったのに。どうしてこういうときに限って無くなるの?
「奥様」
「ああ、グレイ。どうしたの? もう遅いわよ」
「それを言うなら奥様ですよ。もう一時をまわっています。お休みにならないと」
「…うん。わかってるわ」
 眠いんだけど、眠くない。眠れない。
「グレイ、食卓ワインがなくなってるから、今度買ってきてもらえる?」
「ええ、それはかまいませんが」
「じゃあ、お休み」
 紅茶でも飲もうかと思ったけど、いいや。部屋で休もう。そうしよう。
 もうこんな時間だから、ヴァイオリンは駄目だし、本はないし。
 窓を開けた。新月で真っ暗。その代わり、星はいつもよりよく見えた。
 そういえば結婚してすぐのころ、月を見たっけ。あの時カジムは眼鏡をかけていて、ちょっと意外な感じだったんだよね。
 そうそう、ヴァイオリンといえば。私が弾いてるのをこっそりカジムが聞いてて。カジムが聞いてくれるんだと思ってちょっと気合入れたら、カジム寝ちゃって。
 こんなこともあったかな。夜中に一緒に物置部屋にいって、カジムの素性を聞いたのよね。プチ肝試しは新鮮だったわ。
 あと、愛人がいるんじゃないかって思って、バーに乗り込んだことも。結局どうなのかしら。
 舞踏会のとき、コワーイ顔で睨んでいたカジム。私がダンスのとき、エスコートしてあげたんだから。
 遅めの新婚旅行だったけど、アルファさんも面白い人だったし。メアリは美人で。二人とも個性的で、まさにカジムの知り合いだって思った。
 あれ? 案外色々あったんじゃん、結婚してから。
 一つ一つはたいしたことなかったのかもしれない。日常の中の、ちょっと変わった一コマでしかなかったかもしれない。
 それでも、そこには確かに、一コマあったのだ。
 覚えていないところも含めて、カジムとの結婚生活という日常が存在していたんだ。
 カジムが今回の任務につくまで、つまり私が一方的に口を利かなくなるまでは、穏やかな時間だったんじゃないの?
 私が壊したんだ。それを。わたしがこわした。わたしが、こわした。
 結局その夜はほとんど眠れなかった。