「なにかございました?」
「ううん、なんでも」
メイドは青年を見ていなかったようだ。
部屋に戻るときに、メイドには、散歩が意外と面白かったから、これから毎日出歩きたいと伝えた。
メイドは喜んでいるのかめんどくさがっているのか判らない表情をしていた。
そんなことはどおでもいい! 今は何よりあの男のこと。
それは不信感。私は、あの男を、どこかで、見た。
何の根拠もないのに、私のなかでそれは確信へと変わった。暇だったからかもしれない。なにか無理やりにでも気になることが欲しかったのだ。
その日はそう思って気合を入れた。
だから、久しぶりに眠れなかった。
ぼんやりと薄暗い夜空を眺める。
曇っているから、視界が悪い。まるでどこか異世界にでも紛れ込んだような。
小さいころに見た、あの夢を思いだす。夢の中での空模様は全く覚えていない。
そして、ちょうどあの夢のように、人が空を飛んでいる。
──―――人が……て、ええええええ!
ようやく僅かに芽生えた眠気は、完全に拭い取られた。
なぜならばあの日あの夢に見たのとそっくりの光景だったから。
モップの上に仁王立ちして夜空を飛ぶ人。
気のせいかも知れないが、先ほどより少し近づいた。
窓にくぎ付けになって、そのモップ人の行き先を見定めようとする。
モップ人は私の視界の右手前に近寄るように、ビュンっと消えていった。
そのとき確認した。
僅かな月明かりに照らされた赤い髪の青年。それは昼間、自分の家の隙間に消えていった青年とよく似ているようにみえた。
──―――もうなにがなんだか…
こんなに立て続けに変なことばかり起こるのは、なぜ?
何か私は、悪いことしたのかしら?
ああ、いろんな意味で愚問だ。
その夜結局私は眠れなかった。
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そして翌日。
予想通り、ここ数日のごたごたプラス昨夜の不眠は、私にずしんとボディーブローをくらわした。
久しぶりに、風邪をひいた。それもかなり悪質なやつ。
折角毎日あのモップ人の尾行をしてやろうとたくらんでいたのに、これでは元気になってからも、散歩はさせてもらえないだろう。
自業自得だ。ここ数日、頭の中はもやもやだったが、体は調子がよく、気が抜けていた。
もうちょっと、もうちょっと、が、いつのまにか精神疲労とあいまってものすごい肉体疲労につながったようだ。
召使たちはいつも通り社交辞令の心配を向ける。
私も、社交辞令の感謝をする。
──―――つまんないなぁ…
モップ人を見てから実に五日目。微熱はいまだ下がらず。父親は一昨日ちらっと顔を見せた。母親は昨日だった。
──―――つまんないなぁー!
召使に本を読んでもらっても、音楽を聴いても。
がっ……ガチャ
「失礼しますお嬢様」
「なに?」
ベッドに横たわり、振り向きもしないで返事をした。メイド長だ。
「今度から新しくご指導をお願いする家庭教師の方ですの」
「はじめまして、お嬢様」
男にしては少し高め。女にしては大分低め。つまり、男。
少しめまいがするから、そっと起き上がり、振り向く。
「はじめまして。ドル・コルウィジュと申します」
私は生まれて初めて、病弱な令嬢らしい反応をした。
つまり、卒倒してしまったのだ。
だって、目の前の家庭教師は。
赤い髪の、あの、モップ人だったんだから。