「ドアを開けた時はリミッターが外れて軽く漏れた程度だ。その押さえが完全に取れて、叫んだり泣いたりすると一気に放出される。
放出した魔力はあまりにも密度が高い。一斉に放出された魔力は、並みの魔族だと体の中にある魔力を弾き飛ばされて代わりに占有しまうほどだ。
しかし放出した魔力はその後魔王様の中に自然回収されていく。
弾き飛ばされた魔力も混じり合ってな。
魔族特融の能力とかそういう類ではない。膨大で濃密な魔力がただあの体に収まっているだけ、デカい声を出しただけ、ちょっと漏れただけ、だ。
種も仕掛けも弱点もない」
フォニーは愕然とした。ということは、
「無自覚に周囲の魔力を奪うってこと?」
「そうだ。地面近くには飛ばないと分かっているから、とりあえず丸まるようにしている。
人間にも魔力はあるから、魔族人間問わず、魔力が強いものほど支えが全てなくなって倒れてしまう。
あと、耳があいていると激痛で耳が聞こえなくなる」
「それ、特殊能力って言わない?」
それであの王宮魔法師の行列の者たちは全員号泣しているのか。そして、
「ベータは…もしかして家族だから、魔力が近いからセーフとか?」
「ようやく察しが良くなってきたな。そうだ。元々の魔力が魔王様と近いから、浸食されてもその魔力を自分のものにできる。前よりも魔力が強くなる。
だから、安心してあの場にいられるのは魔王様のご家族だけだ」
ベータはなんでフォニーを逃がさないで給仕として置いておくことにしたのだろう。
—————って、分かり切ってるわ。マンドラゴラ一〇〇。
あの瓶を割った罪があるのなら、逃げるのも逃げないのも等しく命の危険が付きまとうと、フォニー以上に分かっていたのだ。
さっきのように多少助け船が出しやすいのは、逃げないでこの場にとどまっているほうということか。
疲弊しきった調理場が多少元の様子に戻り始めた。
「酒、追加で持ってく」
「そうしてくれ。マンドラゴラ八〇は魔王様専用、他の方々は」
「それはそれで別の蟒蛇ってことね」
「良く知っているではないか、うわばみなどという難しい言葉を」
「伊達に酒場で男漁りしてねぇっての」
マルタンはピクリとまた目元を痙攣させたが、フォニーは捨て置いて酒を持って行った。
部屋の中では笑い声。先ほどよりもベータの顔色は普通に戻っていた。
「ベスがつらい間、おまえが支えてくれていたなどと知らず、その上」
ベータが首を横に振っている。
「昔のことですし、それはそれでいい思い出ですから」
そういいながら、なんとなく口元がちょっとだけ、また父親が泣き上戸モードに入らないか心配しているように見える。
「そうか…」
「おかげで薬草の知識はつきましたし、こうして仕事もありますから」
「そうだな。一人で自活できるようになったのだな」
「えらいわね」
うんうんと小柄な中年が運づいていた。
「じゃあ、あとはよめさ…」
ドアを出たフォニーは、ベータが薬屋をやっている真の目的がやっと理解できた気がした。
—————父親にいい顔するため、か。
だって買いに来ている人など、見たことがないのだ。
栄養ドリンクだってフォニーが飲んだのはあるが、他にそれらしい在庫とか販売先は??
孤児院をやるのが夢だったら、そこだけだっていいはずだ。
場所を離して、小屋を立てて、孤児院の離れとしてそこに住んで、たま~に子どもの反面教師をやるだけでいい。
薬屋の看板などいらないはずだ。この家を維持する必要だって、もしかするとない。
でも、父親と母親の思い出の場所で。
ベータの思い出の場所でもあって。
そこでこうやって家族水入らずをするためには、人の中に認知される何かが必要だ。謎の小屋で変な人が住んでいるよりも、看板だけでも、『薬屋』としておけばよい。
魔法使いや薬草屋は多少風貌その他可笑しくても、周りは何も言わない。
ベータが定住していて、多少見つかっても、人々は気にしないだろう。薬屋は街にある。人が来ても、あの可笑しな振る舞いだ。逃げ出すのが大半。
多少気にしたとて、その瞬間だけ『DQN……!』と思う程度だ。フォニーのように。
—————じゃ、その店で本気で惚れ薬買おうとしたアタシも…アタシのほうがDQN…???
カモフラージュに薬屋をやっているベータのほうがフォニーよりもマトモな人格者に思えてきて、ふつふつと悔しさというか、忌々しさというか、こう…湧き上がってくるものがあった。
生活のために必死だったのだから許してほしいが、あの時実はベータも面食らったのではないだろうか。
人っ子一人いない上に魔物が出る——冒険者という気が狂った人間でさえ、この辺りに出る魔物は触らぬ神にたたりなしという感じ——森のそばの、わざわざ来るなと言いたげな薬屋に客が来るなんて。
しかしこんな魔物が出る森のそばに、女一人で住んでいたお母様もなかなかだ。
ベスという名前のお母様は魔王の何に惹かれたのだろう。
その感情が謎でしかなく、餌にしか思えないでいるフォニー。
同族のサキュバスたちはほとんどがそうだった。
ごくまれに、何でか相方がいるのもいたが、『相方』という距離間が近く、恋愛とかいうのには少なくともはたからは見えなかった。
人間の性欲や恋愛感情は見えるが、魔族のそれは見えない。
もしかしたら人間、王宮魔法師のように魔力が強いものには見えたりするのだろうか。
想像するが、それが見えたからと言って特に良いこともない気がして。
人の心が読めるベータがこんな風に人里離れたところでの生活になっていることを考えると、フォニーのように淡々と通り過ぎることができるのは幸せなのかもしれない。
戻って料理を取りに行く。
マンドラゴラ八〇を出す前よりも、酒が減るペースが遅くなっている。
マンドラゴラ八〇の瓶は今残り五分の一。次をもってこよう。
戻ると、向こうにまた黒紫色の煙が上がっている。小競り合いか。
全体の頭数が二割ほど減っているのは気のせいか。いや、もういい。気にすまい。
フォニーとしてはこの宴会で魔王に自分のことを売り込み、安泰を狙いたい、そういう計画でいた。
でも、命あっての物種。
この言葉が身に染みた。取り入ろうとして変なことを考える余裕はない。そんなこと考えたら死にかねない。
今はあの状態だが、また泣き上戸モードになったらどうなるか?
そういえばなんでその状態になるってマルタンはわかったのか?
「マルタ~ン、おーしーえーてー?」
小瓶から液体——あの栄養ドリンクのようだ——を飲み干しているマルタン。
口から白茶色のとろみのある汁が垂れている。片手でマルタンはサッとぬぐった。
「良く冷静な顔してあの液体飲めるわね」
「後味残るフレーバーも慣れだ」
マルタンにもやはり臭いらしい。そして効果があるらしい。
「見てたわけでもないのに、なんで魔王様があのタイミングで泣き入るってわかったの?」
「長年の付き合いの勘だ」
「って?」
マルタンは淡々としていた。
「魔王様があの座に就く前、マンドラゴラ一〇〇がこの世に出る前から、私は魔王様を知っているのだ。
当然、普通に酒を酌み交わしたことも、何度もある。
だから、マンドラゴラ一〇〇がない時にどのくらいのピッチで酒が消えていくか・料理が消えていくか・しんみりし始めるかは熟知している。
マンドラゴラ一〇〇がないのは痛手だがな。あれがあると酒の心配はいらなくなる。
八〇ではやったことがないから、この後は未体験ゾーンだ」
マルタンはこれまでフォニーがしてきたどの質問に対してよりも真剣に答えてくれていた。
その眼差しの向こうには、家の裏口の開いたドア。
フォニーはどうしても思ってしまった。
—————宴会の酒の進み具合の調整って、魔界の魔王に次ぐようなスーパーハイレベルの人が全力でやることなんかな?
なんとなく誇らしげなマルタンの横画をを見ながら、フォニーはゴーゴル相手のとき声に出して言っていた言葉をマルタンのプライドに免じて心の中だけで唱えることにした。
—————お疲れ。