領主館へようこそ 72

—————『魔物が出たって』
 デューイからの報告をジーに伝えられてすぐジョットは書斎を出た。
 負傷して帰ってきた三人を見て、救急用具を取りに行くユンを見送るや、
「ジー! ちょっと来て!」
—————『つぶやきゃすむのに』
—————『大げさにした方がいいだろ』
「小屋からあの護符とか、あるやつ一式持ってきて」
 ジーはそのままダイニングをスルーして全力で駆けていく。
 席についた調査担当三人は息を整えていた。
「なにがあったんですか?」
「魔物がでました。大型です」
 ジョットはあえて強く唇を結んで見せた。
 しばらく黙り、うつむき、逡巡しているように見えるだろう。
 そっと顔を上げると、三人は誰が口火を切るか様子を見るような顔になった。
「よくいるキメラの一種と思います」
 キシアスだった。淡々と相手の特徴点を説明すると、
「お祭りの準備真っ盛りの村にはまず向かわないでしょう。
 出現位置は…」
「村より領主館に近いのも不幸中の幸いか…。
 でも、魔除けが切れると血の匂いをたどってここにくる可能性がありますね」
「危険を持ち込んでしまって面目ない」
「いえ。賢明なご判断でした」
 聞くとどうもこの後の持ち球がないらしいことも分かった。
 魔除けなども最低限しかないとのこと。
 ベータは呼べないし。となると。
「隣町の軍を呼んでください。
 魔法使いの要請も、事後のことがありますから無駄にはなりません。今すぐにしてください。
 今日この後、僕らで出現した地帯と領主館の間で人が通りそうな境界に当たる部分にこの魔除けを撒いてきて、そのあとは軍が来るまで森にしばらく残ります。
 時間稼ぎですが、ないよりましでしょう」
 キシアスはジョットの考えを遮った。
「それだと…」
「大丈夫ですよ。
 曲がりなりにもプロですから」
 作り笑いだ。負け戦が分かっているときの。
—————僕が殺した兵士の中にも、こんな顔した奴いたな。
 繰り出す瞬間、正面を向いた彼らは、一瞬だけ今のキシアスと似たような面持ちになることがあった。
 思い出すジョットをよそに、全員がその場で各々の作業に入り、会話が消える。
 だから、
—————『僕が行く』
—————『ばれないようにできんの?』
—————『無理だ』
—————『じゃあ』
—————『話した後、ダメそうだったらその場で片を付ける』
—————『それしかねぇか』
—————『うん』
 一人頷く。
 それからも時は刻一刻近づいてくる。
 空の曇天も。
—————『これ、魔除け意味ねぇな』
—————『僕が行く案確定だね』
 チリカにはもう伝えていて、『ま、そうよね』と例によってドライだった。
 そのことを伝えられない三人と屋敷に残る者たちだけは、平静を装った不安をまとってパタパタと動き回っていた。
「いってきます」
 雨になるかもしれないと口にすると、ユンはすぐさま魔除けの効果が薄くなることに気づいた。
 加えて、右腕をかばうジェレミーの後ろ姿。
 どう考えても討伐は無理だろう。
「リアさん、ユンさん、チリカの3人で、備蓄できる食材や日用品を全部上階に上げて。
 ジーは外にある武器になりそうなものを同じように上階へ」
 ジョットが外に出るときには確実に誰も1階にいない状態にしておきたい。
 その他にも、できるだけ皆が部屋にこもるような体制を整える。
 夕食で集まった全員に謝罪し、後はなるようになると笑顔を浮かべて伝えた。
 これで皆誤解してくれる。
 自分がキシアスと同じように、殉教者になる覚悟をしたのだと。
 ある意味それは間違っていなかった。
 ジョットの最大の秘密を、討伐に向かった面々に披露し、場合によってはさらなる罪を重ねる予定なのだから。
 そして皆がダイニングを出て。
 雨が降り出し。
 夜が来る。
 夜と宵闇はジョットの時間だった。
 書斎にティーセットを持ち込んで一人、出陣前のお茶をたしなむ。
 窓の外の月明かりもない暗がりは、ジョットには昼間とほとんど変わらない。
 メイちゃんが鳴き声を上げながらむしゃむしゃと仕事をしていた場所に、誰もいないだけだ。
—————『そろそろ時間だ』
 同じ場所に戻ってくるのがあの魔物の常。
 キシアスに聞いた通りの熊型のキメラなら、実は以前森で出くわしていた。
 その時はしばらく行動範囲を追って、次出た時のために様子も探った。
 行動範囲が村に近づきすぎたので、結局片付けたのだが、それがこんな形で奏功するとは。
 そっとドアを開けて、廊下に出て。
 夜にユンとティータイムを楽しむ、その前と同じように、手すりに手をかけて定位置に着地しようと空に体を放つ。
 その直後、耳に残響のように、ドアノブが開く音が聞こえたのは間違いなかった。
 『あいつ実はビビリなんだから』と行って心配していたジーがリアの部屋に入る音か…ユンが部屋を出た音か。
 後者を思い浮かべた時動悸を感じたが、切ないほどにすぐにそれを元に戻せてしまったジョットは、そっと玄関のドアを音もなく開き、外から鍵をかける。
 雨の庭。
 足を踏み入れるも、ジョットが濡れることはない。
 雨はジョットの体一つ分を避けるようにふんわりと割れて道を開けていた。
 ぬかるみに靴が触れないよう足元にも少しだけ『力』を加えると、空気の抵抗なく走り出せた。
 体が軽い。
 そういう『力』を使っているのだから当たり前だ。
 まっすぐに森の、あの場所に向かって進むジョットの一歩は何よりも軽やかで速かった。
—————ちょっと濡れといたほうがいいな。
 森に入る少し前で一旦『力』を切ると、ぬかるみが靴にまとわりつき、服は濡れた。
 程よい具合になったところでまた『力』を入れる。
 息切れなどするはずもないまま、ジョットは森の奥深く、キシアスが示していた場所へ。
 昔カロネアで野宿したころを思い出すような、でもそれ以上に自分の領地という意味でも、慣れているという意味でも自分の庭。
 木々をかき分け、木の実を拾うのに進みなれた道の奥へと進んでいくと、いつもはないまばゆい光。
 ほんの一瞬だけ目がくらむが、すぐに合わせる。
 光はジョットの進行方向に、ジョットよりもゆっくりと進んでいた。
 間もなく魔物が出現した場所に到着しようとする、キシアス達のランタンだった。
 そのキシアス達までもうあと一歩というところで『力』を完全に切ると、鬱蒼とした木々の間から降る雨粒がジョットの肩に落ちた。
 事前カモフラージュは完璧。
 これで領主館に帰った後に『力』が領主館に残ったメンバーにばれないだろう。