領主館へようこそ 47

 声に出すことはできなかった。
 喉の奥の奥まで完全にこわばっていた。
 もうすぐこの世を去るジーから託されたその荷物の重さが怖くて堪らない。
 ジーの遺言はユンの体にめり込んでしまいそうだった。
 コーウィッヂ様のことは好きだ。
—————でも…だって…
 自分の仕事が。
 何かあったら、コーウィッヂ様は雇い主だし。
 領主だし。
 得体のしれないところがたくさん、ある。
—————大丈夫? 本当に?
「一人になるのはもっとずっとあとにさせてよ…」
 弱弱しい震え声。
 ユンは祖父と祖母が相次いで言った後の、がらんとした家を思い出した。
 あの二部屋しかない小さな家でさえ猛烈に広くなったあの時。
 それがもし、領主館と、領地と、この屋敷の他の住人達だったら…。
 ユンは氷の塊が急にお腹の中にできてきたような冷たさに囚われた。
—————コーウィッヂ様のために、私ができること…
 その冷たさは、そのまま焼けつくような『力』——気力なのか体力なのか、なんのエネルギーでやっているのか、ユン自身にもよくわからないなにか——が沸き起こって。
 その『力』で、ユンは腕を動かした。
 コーウィッヂの頭を指さし、ジーの瞳を見据えて頷く。
 ジーは、普段なら不躾だからと絶対にしないだろうポーズを取っている、そんな震えるユンの姿を見た。
 満足したようだった。
 ウインクは最後まで行われなかった。
 できなかったのかもしれないし、しなかったのかもしれない。
 そのままにやりとしたジーが、コーウィッヂに視線を戻す。
 ゆっくりと深く息を吸い、
「待っ…
 あ…ァ…」
 吐き出す。
「ゥ…」
 コーウィッヂの口から小さな小さな音が出る。
 舞い戻った梢響く静けさは、長く続いた。
 ジーはもう、息をしなかった。
 コーウィッヂは肩を落とし、足元を見てゆっくりと息を整えている。
 ユンはただその姿を見ていた。
 梢は時折風に拭かれて強くなり、弱くなりを繰り返している。
 誰も動き出さない。
 たった今、『一人になった』コーウィッヂ、
—————違う。
 じっと佇んでいるコーウィッヂを勝手に観察し、勝手に内心で反論した。
—————コーウィッヂ様がそう思っているだけよ。
 ジーの亡骸に目を移す。
 ついさっきまでやきもちを焼いたり、怖くなったりしていた相手だった。
 仕事の先輩で、お世話になった人。
 おそらくコーウィッヂと秘密を共有する、コーウィッヂの最大の理解者。
 ユンはジーにはなれない。
 当たり前だ。わかっている。
 恋敵みたいにも見えたジーの最後のお願いに応えるのが、癪な気もしないでもない。
 そんな酷い自分とも折り合えるのは、
—————私は、コーウィッヂ様のことを知っている…いや、わかっている人になりたい。
—————だから、コーウィッヂ様とジーさんが隠してきた首の入れ墨のことをコーウィッヂ様から…。
 もう自ら閉じられることのない半開きの左目の青い瞳は、どこか別の場所につながっている湖のように澄んでいた。
 ユンはその瞳の奥底に、もう伝わることのない相槌を打つ。
—————私がこの人を一人にはさせません。
 ぼそりと、コーウィッヂがつぶやいた。
「おつかれさま」
 ジーの瞼を両方とも、その手でそっと閉じて、ポケットからハンカチを取り出し、顔に掛ける。
 手が震え、ハンカチが斜めにかかってしまったのをまっすぐに直し終わると、
「ユンさん」
「連絡ですね。デューイさんが出勤したら…」
「いや…うん、そうだね」
「葬儀は…」
 コーウィッヂが首を横に大きく振ると、
「ジーからやるなって言われてるんだ。
 墓ができたら墓参りくらいは構わないけどって。
 死んだら僕がって…」
「でも…」
「いいから!
 じ、持病は、伝染する可能性がゼロじゃないから…。
 ジーの体も、僕が1人で埋葬する。
 そうしろって、言われている。
 連絡だけ入れて」
「かしこまりました」
 頭を恭しく垂れるユンを、コーウィッヂはどう思ったろうか。
 階下に向かいながらユンは、コーウィッヂの嘘に揺るがないぞ! と堅く決意していた。
 伝染するかもしれない病気の人間の亡骸を領主が直々に1人で行うなんてあり得ない。
 ユンだってうつるかもしれないのを、コーウィッヂが止めもせずに看病させていたのに何を今さら。
 嘘があんなにへたくそになるくらい動揺しているコーウィッヂのことだ。
 この後の埋葬も本当にコーウィッヂが思っているようにできるだろうか。
 ユンは、あのときウインクしていたジーが、そのまま鼻で——ないけど——笑っている様が容易に想像できた。
 階段の段差がいつもより見えにくい気がするが、みどりちゃんとコビとシロヒゲが階段下に集まっているのが分かり、リズム感だけで駆け下りる。
 上に来なかったのは理由があるのか、コーウィッヂの言いつけか。
 ユンの足元にみんなぎゅっと寄ってくる。
 三人とも前にユンが泣き出したときと同じようにバタバタしているのは、気づいているからだろう。
 ユンは意を決し、いつもよりも少しだけ強く息を吸って、
「ジーさんが…」
 言い切る前に声が震えだす。
「な、亡くなり…ました」
 堰を切ったように涙があふれだしたのは、その時ようやくだった。