領主館へようこそ 45

 ジーが本格的に伏せりだしてから2日目。朝食前。
「おはようございます」
 ユンは手に持った水差しをジーの傍らのテーブルに置いた。
 一昨日・昨日とコーウィッヂは日中の一時期だけここにとどまっていた。
 朝覗きに来ることはほぼなく、今部屋にはユンとジーの二人だけ。
「お加減どうですか?」
 ジーは首をわずかに縦に動かす。
 悪しからずなのか、相変わらずなのか…そのモーションの指す意味が掴めない。
 が、苦しそうではないから最悪の事態ではないと思う。
 祖父母の時を思い出し、自分の仕事としての動きが極端に鈍りそうになると、ユンは自分を納得させるために一人頷いた。
 その様をじっと見つめ、ジーはなぜか口元を緩ませた。
「枕カバー変えますんで」
 少しだけ、ジーが首を動かす。
 枕を取り出し、カバーを取り換え、また再び枕を差し込む。
「イ…」
 ジーはそのタイミングで、腕をゆっくりと動かし、自分の首筋へと持っていく。
「いいですよ、頭持ち上げますから」
「イ…イ…」
 どうも違うらしい。
 動きも、枕を差し入れるべく自分の首を浮かせるためという感じではない。
 首の特定のある位置を指し示そうとしているようで、頭をかろうじて浮かせたまま、震えている。
「痒いですか?」
 ユンはジーの頭を左手で支えた。
「イ!…イイ…ッス!」
 ジーの歯の間から空気が漏れるような声が聞こえる。
 兎に角ユンはジーが指さすその場所——首筋の右側に寄ったあたり——を見た。
 傷跡のすぐ左側に文字の入れ墨が入っている
 『G』というシンプルな形の一字——最近書類にサインだけする時にたまに見かけた——だが、ユンにはそれが何を意味するのか分らないのが残念だ。
 字が読めるジーには意味が分かるのだろう。 
 仕事をできていた間は襟の高いシャツを着ていたから隠れていて見えなかった。
 ここにこの文字だけ入れたのはどういう意味か…。
 引っかかったのはどこかで同じようなものを見たことがある気がしたからだ。
—————どこで見たんだっけ?
 ジーの腕が力なくベッドに落ちる音で、ユンは考え込んでいたことに気づき、
「すみません、今…」
 首筋のその位置を掻く。
「こんな感じでいいですか?」
 ジーは無反応だった。
 よほど痒かったのだろうと思っていたのだが、違ったのだろうか。
「頭、降ろしますね」
 枕を差し入れ、そのうえにジーの頭を下ろす。
「お疲れさまでした」
 シーツはもう少し大丈夫そうだなどと思いながら、部屋を出ようと振り向いた。
 そのユンのスカートの裾が何かにひっぱられる。
 ベッドから出たジーの手が裾をつまんでいた。
「どうしました?」
 そっと枕元によると、ジーはわずかにユンのほうに顔を傾ける。
 ジッと見た後、パチリと左目を閉じてウインクをし、ニヤリと笑った。
 ユンが怪訝な顔をすると、苦しそうに、でも可笑しそうに息を断続的に吐きながら笑いを漏らしている。
「特になし、ってことでいいですね?」
 多少つっけんどんになるのは仕方ないだろう。
 ジーは小さく頷いた。
「あとでみどりさんに床掃除に入ってもらうんで」
 言い残して部屋を出る。
 コーウィッヂが階段を下りきるのが見えた。
 いつもより早い。
 慌てて駆け下りる。
「おはようございます!」
「おはよう。
 いいよ、僕が勝手に早く目が覚めただけだから。
 メイちゃんの様子見に行くとこ。
 いつもの時間でいいからね」
「ありがとうございます」
 コーウィッヂが外に出るのを頭を垂れて見送る。
 代わりにコビがやってきた。
 こちらはいつもより早いけど、通常運転の模様。
 人間だったら今の状況——ジーが死にかけていて、コーウィッヂは毎日気が気じゃなくて、ユンも不安——に釣られておかしくなっていそうだ。
 人間じゃないメンバーが安定していることで、逆に影響されたユンの気分はかなり楽になった。
「おはようございます、コビさん」
 死ぬということが分かっていないからこういう感じなんだろうか。
 いや、バーギリアの魔道具という言葉が本当ならこの二人、何歳なのかも怪しい。
 『昔々あるところに』で始まるお話の登場人物なのだから、よっぽど大昔から——何百年も前から——いた可能性がある。
 実はたくさんの人が亡くなるのを見送って、ユンよりずっと慣れているのかもしれない。
—————大人…
 さっさと床を掃きながら遠くに進んでいくコビの姿に、今まで以上に敬意が沸いた。
 ダイニングで朝食を作り、戻ってきたコーウィッヂとともに食事をとり、『昨日と同じ感じでした』という報告を上げ。
 『じゃ、昨日と同じ感じで』という言を受けて朝食の時間が終わりになるころには、ユンの考えはコーウィッヂの事になっていた。
 襟の高いシャツは相変わらずよく似合っていて、初めて会った時の美少年ぶりに何ら影を指してはいない。
 ジーのシルエットにこのシャツが重なることはもうないのだと思うと不思議な気持ちになった。
—————そういえば、なんでジーのシャツと同じデザインなんだろう。
 別のデザインをわざわざ頼むのが面倒だからだろうか。
 でも雇い主と同じデザインのシャツを雇われ人が来ているというのは妙な話だ。
 襟のデザインは結構目立つ気がするし、襟が高いシャツはユン自身、前の雇い先では余り見かけなかった。
 苦しいとかなんとか、男の召使いの人から聞いたことがある。
 ユンの制服はわざわざオーダーメイドしたのに。
 男二人の服は、わざわざ、二人で、同じ。
「じゃ、よろしく」
 コーウィッヂがシャツの襟の上から首を揉みながらダイニングを出ていく。
 偶に見かけるコーウィッヂの癖だ。
 今日はシャツの上からだが、ほっとした時なんかはシャツのボタンを外して、襟の隙間に手を入れて直接ぐるりと揉んでいることもあった。
 前にも見たことがある。
 その時は、確か…
—————字が書いてあった…。
 ダイニングからみんながいなくなったところで、ユンは鳥肌が止まらなくなっていた。
 何度も見たものを思い出す。
 その字の位置。書いてあった形の雰囲気。
 ジーの首筋の『G』とそっくりで、位置もそっくりで。
 『G』の右側が傷跡の代わりに 何か他の文字で埋まっていたことまで思い出すと、ユンはその記憶から逃げるように食器を片付け始める。
 その刹那。
「ユンさん!!」
 コーウィッヂの切羽詰まった声が二階から響いた。