領主館へようこそ 36

 ユンの『大丈夫』には本当の本当に、どこにも何の根拠もなかった。
 しかも困ったことにユンはコーウィッヂのことを心から信用できているわけでもなかった。
 それでもユンは背筋を伸ばしてコーウィッヂに言い張った。
「お待ちしておりますので!」
 コーウィッヂは頑として言い張るユンを、どこかぽかんとあきれたようなふうに見ていた。
「…うん」
 そのまま視線を落とし、手元を見ながら、
「わかっ…た」
 そう言ってからもしばらく、コーウィッヂは自身の手——というか、手の甲のあたり——を見つめていた。
 ユンが黙ったままでいると、恐る恐るという様子で顔を上げる。
 泣きそうなのはそのままだけど、無理やり笑っているようなこれまでのそれとは違っていた。
 頬が紅潮して、潤んだ瞳、半開きの唇。
—————やっぱり、綺麗な人だなぁ。
 コーウィッヂは『えー』とか『アー』とか言いながら次第に挙動不審になっていくのにもかかわらず、ユンはその一挙手一動足を見逃すまいとしていた。
 もっといろんなコーウィッヂが見たいと思った。
 そうこうしているうちに、自分がなぜそうしているのかわからなくなり、いつの間にかユンのほうもコーウィッヂと同じように下を向いて、エプロンの端を両手でぎゅっと握りしめていた。
「じゃ、じゃあ、もう休もう。
 夜中だし、心配事はなくなったわけだし!」
「そそそ、そうですね!
 かたずけたら上がります!」
「おおおお先に!」
 ダイニングから出るコーウィッヂもティーセットを片付けるユンも、二人ともそそくさとした感じがぬぐえない。
 ここに降りてきたときと同じように考えを巡らせたっていいはずなのに、ユンはこの場にいとどまるのがはばかられた。
 だから、片付け終わるや否や、部屋に戻った。
 思ったより疲れていたのか、ベッドにもぐりこんだ後次に目覚めたのは明るくなってからだった。

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「国の魔物調査官て優秀なのね」
 リアは昼過ぎに豊穣祭に向かう3人の付き添いで領主館を出る前に、ユンに感心した様子で話していた。
 他の人達は朝からどこかよそよそしかったので、リアのこの一言でユンはかなり気が楽になったものの、いなくなったら一気に気が重くなった。
 昨夜の現場の再調査を午前中に行ったため予定よりも祭りを見て回る時間が減っていたが、皆なぜか残念そうではなかった。
 というより今朝もまだ昨夜の何かをかみ殺しているような感触を——特にキシアスが——残していた。
 『慰安に行く』というより『お祭りという行事に仕事の過程で参加してくる』というようなキシアスの様子。
—————何かあったのはわかるけど、何があったらあんなふうになるんだろう。
 ユンはコーウィッヂが何か魔物の退治に関わったのは間違いないと踏んでいた。
 もうあの人のことだ。なんでもありで、深く考えたくなるけど、考えたところでやっぱり…。
 でもキシアスは?
 ユンの手元はてきぱきと仕事をこなしていた。
 そしてお茶の時間にダイニングにやってきた今日の参加メンバー。
 ジーとチリカと、そしてコーウィッヂ。
 それぞれ定位置に着席していく。
 ここにユン自身を加えてみたってどう考えても会話が弾みそうもない面子であり。
 業務連絡と静かなおやつタイムで終わりになりそうだが、ユンは他の二人が今のあの3人の様子に何のリアクションも示さないのも実のところ気になっていた。
—————二人とも絶対何か知ってる。
 付き合いが長いわけだし当然と言えば当然なのだが。
 いつもならみどりちゃんやコビやシロヒゲがいるので疎外感を感じずにいられたのだが。
 今やユンにとって人間だけの空間にいるほうが、いつものあのカオス状態よりのけ者感が強いとはなんとも皮肉だ。
「今日で折り返しです。
 チリカの料理は、明日の昼・夜は思い切り軽めで」
 その代わりリアの穴を埋めて雑用をしてもらっているわけだから、プロの料理人に申し訳な過ぎた。
「つまみ食いしてもいい?」
「…ほどほどに」
 コーウィッヂのあきれたような顔。
 自分だってよくつまみに来るのにそれとは別なのだろう。
 厳しい領主様だこと、とちょっと皮肉になりつつ、そのやり取り自体に腑に落ちなさを感じつつ。
 ジーはいつも通りで、穴の開いた鼻の横らへんをポリポリと指で掻いている。
—————なんかムカつく。
 ほとんど会話のないティータイムを終え、皆が仕事に戻ったのを見届けたユンは中庭に出た。
 まだ仕事は全然残っている。
 こんなにやる気が出ないのは初めてだ。
 メイちゃんが草むしりしているところにゆっくり近づくと、彼女は穏やかに額をユンに押し付けた。
 ぐりぐりと擦り付けるしぐさに、ユンはその首を抱き込む。
 仕事をしないと…もどらないと…と思って屋敷に目を向けたつもりなのに、視界に入ったのは別館だった。
—————別館のみんなに会いたい。
 喋っていないのはいつもと同じはず。
 今日はコーウィッヂが静かだったからだろうか。
 でも、今までだった大してユンは喋ってなんていない。
 ジーとも、チリカとも、リアとも、ジェレミーとも、他の3人とも、そしてコーウィッヂとも。
 ただの寝不足かもしれない。
 昨日の夜、あんなにコーウィッヂに強く出て、なんとなく距離が埋まっているような気がしたのに、その空気の壁はユンの前に立ちはだかっている。
 足取りだけは屋敷に戻っているのだが、ユンは心に決めていた。
 階段を上り、コーウィッヂの部屋に向かう。
 そしてノックする。
「はい?」
「ユンでございます」
「えっ!?」
 声の少しあとに、足音もなくコーウィッヂの部屋のドアが開いた。
 ユンはコーウィッヂが心配げに顔色を悪くしているのがわかっていて、それでもそのことに触れもせずに切り出した。
「別館のみんなの様子を見に行きたいのですが、構いませんか?」
 コーウィッヂは一瞬眉間にしわを寄せるも、少し目を伏せて、
「いいけど、鍵持たせて一人では行かせられないから僕もついていくよ?」
「はい。構いません」
「…じゃ、行こうか」
 コーウィッヂはそのまま部屋の中を片付けもせずに、横に手を伸ばして鍵束をもって部屋から出てきた。
「今進めていらっしゃったお仕事はいいんですか?」
「いい。ダイジョブ」
 ちょっと心配げなコーウィッヂと二人、そのまま誰とも会わずに別館に向かう。
「言いおきとかは…」
「ユンさん、僕領主だから」
「も、申し訳ありません」
 詮索などされない、そういうことか。
「…ごめん」
「いえ、勝手を言って…」
「大丈夫だから」
 ぴしゃりと言い放つコーウィッヂが今日は強くて。
 結局その後別館にたどり着くまで、どちらも一言も発することはなかった。